2015年6月9日火曜日

あきらめと受け入れ 推敲後(2)



防衛機制としてのあきらめ


私がこの終戦直後の日本人の反応から何を言いたいかといえば、あきらめや受け入れの心は、一歩間違えれば敗北主義は迎合になってしまう可能性があるということである。程よいあきらめや受け入れはいいが、それが個人の過剰な没我傾向を反映しているとしたら、それは健康とはいえない。そこで得た発想は、あきらめを防衛機制と捕らえるというものである。
あきらめは防衛機制だ、なーんて話は、実は私はどこからも聞いたことはないが、よく考えるとまさに重要な防衛手段である。防衛機制と割り切ると、そのポシティブな側面とネガティブな側面が見えてきていいのではないかと考える(防衛機制って、みんなそういうところがあるのだ。)だが、そうなると自我心理学的な頭が働いて、いったい脳の中ではどういうことが起きているのか、などと考えてみる。「あきらめの脳科学」である。
 あきらめの脳科学は、喪の脳科学でもある。喪失の認識も喪も、起きていることは同じだ。私たちの脳は、ある獲得体験や喪失体験を持つとき、必ず過去のデータベースと照合する。あるものを喪失したという認知は、脳の中のバランスシートに反映され、登録されるが、それはいっぺんには起きない。毎回少しずつ登録されていくのだ。おそらく一日一目盛り、というようなペースで。おそらく数日とか数ヶ月とかいうペースで喪失はバランスシートにゆっくり登録され終わる。それまでは喪失は痛みを伴い、喪の作業は続くのである。
昔の思い出だ。昔医学部時代の友達の母親が体調を崩し、肺のレントゲンを撮ったところ、影があることがわかった。確定診断は、実際に手術をしてから組織を検査に回すことでしかつかない、と言うことだったが、ガンの疑いがあるということで、クラスメートは、とても落ち込んだ。ガンだったらもう助からない。自分はこんなに若くして母親を亡くしたくない、など。医学部の研修を一緒に回るチームだったので、毎日彼の不安や悲しみを耳にしたのである。ところが2週間の休みを挟んで彼と会うと、彼は普段通りほかのクラスメートと談笑している。きっと彼の母親の診断が良性腫瘍だと分かったのだろうと思った。彼はそれほど態度が一変していたからだ。しかし話を聞いてみると、手術はまだおこなわれていず、母親のがんの疑いは特に晴れたわけではない。ただ彼はその運命をある程度受け入れて、先に進んだわけである。「人はこうやって運命を飲み込み、消化し、そのうえで心にエネルギーの上澄みが出来るんだ。」と私は思った。結局は喪のプロセスである。ちなみに彼の母親の肺の影は良性腫瘍だということがわかり、彼も私たちも一息ついたわけである。
このようにあきらめや受け入れには記憶が重要な役割を担うことはお分かりだろう。海馬を失った有名な症例HMは、数分で今起きたことを忘れる。すると親戚(確かそうだった。原典に当たる必要あり)が亡くなったことを話すと悲しむが、忘れてしまうため、毎回その話をするとショックを受け泣いたという。彼は記憶を定着する機能を失ったために、一生あきらめや受け入れが出来なくなってしまったわけである。海馬の機能が保たれている私たちは、失ったという記憶を徐々に定着させていくことであきらめを完了することができる。
しかしもしこの脳におけるあきらめや受け入れのプロセスが実は機能しない場合はどうか。つまり本当は受け入れを拒否しているのに、受け入れているかのごとく振る舞うことになるのだが、脳のレベルでは喪のプロセスは進んでいないとしたら。恐らく体面を重んじて、あるいは相手に気を遣ってあきらめや受け入れが完了したということになる。ここに本当のあきらめと、見せかけのあきらめという区別を設けてみようか。どこが違うのだろう?
偽りのあきらめは、本当はあきらめきっていないわけだから、恨みと復讐心が残っているだろう。逆に本当のあきらめは、それが最初からなかったかのごとく扱えることを意味するのだろう。
 こんなたとえ話を思いついた。夫婦が新居に移り住むことになった。ついでにリモデリングをすることになる。妻はリビングの壁紙を花模様にしたい。夫はそれには気が進まない。しかし夫がそのことをつたえると妻は相当に気分を害する。稼ぎが少ないこと、家族の時間を持たないことなどの不満を言い出す。夫は「わかった、じゃここはキミの意見を取り入れよう。花柄で行こう。」となったとする。夫はそれを単に我慢しているだけなのか?それともあきらめ、受け入れたのだろうか?・・・ 恐らくそれ以降の彼の様子を見ないと何とも言えないだろう。どういうことか。
 夫婦はそのうちまた口論になる。妻は「あなたは私の言い分を聞いてくれない」と文句を言う。その時夫が「だいたいいつも帰宅してリビングでくつろぐたびに、なぜオレの趣味でもない花柄の壁に囲まれなくちゃならないんだ。これからおそらくずっと何年も……。なるべく口にはしないようにしているが、実に腹立たしい。これがキミの言い分を聞いた結果なんだ」となるか、それとも夫はもう花柄の壁紙のことは本当に気にならなくなっているのか? 後者ならあきらめと受け入れの作業は完成しているので、夫はもうそのことを持ち出すこともなく、新たな喧嘩の火種にはならないだろう。
人間は自分の責任のもとで起きたことは、その結果をかなりよく受け入れるものだ。というよりそうするしかないではないか。もし自分が酔った勢いで花柄の壁紙をオーダーしてしまい、あとでなぜそんなことをしたのか理解に苦しむとしよう。それを人のせいにできるわけもなく、その結果に甘んじるだろう。他人のせいで、ある不都合なことが生じている際には、人はそれを受け入れる事が出来ず、その他人に恨みを抱き続けるのだ。 

一つ言えること。受け入れる、あきらめるとは、自分のこととして引き受けることなのだ。そこに他者に対する恨みは存在しないことになる。しかし一体どうしたらそんな境地になれるのだろうか?