2015年6月10日水曜日

あきらめと受け入れ(推敲後)(3)

 あきらめと希望

防衛機制としてのあきらめは何をもたらしてくれるのか。というより私たちを何から守ってくれるのか。逆説的な考え方ではあるが、それは私たちを深刻な絶望やhelplessness 寄る辺のなさから守ってくれるのであろう。なぜそのようなことを考えるかということだが、私たちは現実を受け入れることで楽になったり、ある種の苦しみから逃れたりするということがあるからだ。あきらめとは一種の魂の救済ともいえるであろう。それは私たちに希望を与えてくれる。
 希望のなさとは、きょう一日を生きることにさえ意味を見いだせない状態である。おそらくそれは「自分はどうして生まれたのだろう」「どうして結婚なんかしてしまったんだろう?」「どうして子どもなんて作ったんだろう?」という状態なのだ。
死すべき運命 mortalityを受け入れることは、人生に希望を失い、自殺へと向かう傾向とは異なる。死すべき運命を本当の意味で受け入れた人が、深刻に首を吊ることを考えたり、毎日暗い顔をして過ごすということは起きない。死すべき運命を受け入れることは、毎日の生をそれだけ豊かにするものだからである。「どうせ死ぬのだから」は、「今日生きていてもしょうがない」にはならない。「だからこそ今日、というより各瞬間が楽しい」になるのである。それはどうしてだろうか。
 考えてもみよう。桜はどうせ散ってしまうから愛でる価値がない、と思うだろうか?明日は散ってしまうからこそ今日の桜が美しく見えるのではないだろうか?それは現実の桜を超えて私たちが、桜をその不在において想像し、心に置くからだ。

あきらめと不在

ここで改めてあきらめと不在について考えてみよう。私たち日本人は不在を愛(め)で、感謝するという心を持つ。「詫び寂び」の心は物事が一時的にしか存在せず、やがて消えていくということを愛でるところにあると思う。在の中にすでに不在を見出しているところがあると言ってもいいだろう。私が将来この世からいなくなる。あるいは私は長年暮らしたアメリカのあの町から、11年前に忽然と消えた。私が勤めていた前職場の仲間にとっては、私は死んだも同然だろう。それでも私は彼らの心にある種の痕跡を残していることを知っている。日本から見た、アクセントの強い英語といつも冗談ばかりの、時にはムキになる医師として。そしてそれは私がそこに存在し続けたのに比べて、そんなに悪くないのである。なぜだろう?だって生身の人間は結局はヤヤコしく、面倒だからだ。
 たとえば私は生前の母親には、電話で話していて3分も耐えられないほどのストレスを体験させられた。いかに実家に帰らない口実を設けるかを考えることも多かった。そしてそのような自分に後ろめたさも感じたものである。しかし今私の心に残っている母親は、実はよかった部分をことごとく残してくれているのである。私はそれをありがたいと思うし、母親が亡くなった時から、新たな関係が出来上がったとさえ考えている。不在がありがたいのは、私たちが自由に頭の中で相手のイメージを作り直す自由を与えてくれるからだ。そしてもちろん私は同じことを周囲の人々に対してしているはずである。生きている人間は我儘で、待ったが効かず、煩わしいものである。「生き物」である以上はそこに存在して、一定の場所を占拠し、一定の食物を必要とし、排泄する必要がある。自分一人でできることなど何もなく、ことごとく周囲に依存して声明を成り立たせている。考えてみれば不在が美化され昇華されるのは当たり前の話なのだ。
なぜこの問題があきらめと関係するかと言えば、不在を愛でることが出来るから、私たちは失うことに耐えることが出来、場合によってはそれもまんざらでもないと思うのである。私たちは毎日多くの人と出会い、多くのものを獲得し、そしておそらくそれに負けないくらいのペースで多くの人と別れ、多くのものを失っていく。でも失うことに耐えられるのは、私たちの記憶がそれを留めるからであり、そこからそれらとの新たな関係を作ることが出来るからであろう。