2015年6月7日日曜日

精神医学からみた暴力(ダイエット後)

 編集の方に「長すぎるから、量を半分にしてください」という冷たい宣告をされた。以下はそのダイエット後。

精神医学からみた暴力
                 
はじめに
暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならない。地球上のあちらこちらで不幸な殺戮が毎日のように繰り返されている。「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張する人もいるだろう。。しかし最初に私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるべきであるというものである。 
 
すべての源泉としての「活動性と動き」
暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が分かれている。私の立場は攻撃本能がたとえあったとしても、幼児期に見られる攻撃性や暴力は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、というものだが、それは精神分析ではD.W. ウィニコットの立場に近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性activityと動きmotility であるという(1)。
子供が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば目の前の物が動き、母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきである。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばホワイト(2)の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出スことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。
 以前プレイセラピーをしていた時のである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私は悲鳴を上げると、子供はそれを見て笑う。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。
 私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そう言えないこともないだろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 動きと攻撃性、そしてそれに対する抑止
  ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、人の感情の変化なのである。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。そしてその「効果」が特に顕著なのが、人の示す苦痛の感情なのだ。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、その例だった。
 もちろん現実の他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、それよりもはるかに原初的な心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類研究者も伝えている (3)。 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、本能の一部に組み込まれている。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのではないか?そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。

その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに「効果」を与え、私たちの精神生活に切っても切れないほどの影響を与えているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇打撲事件」「〇〇全治一か月事件」などと題された本を想像してみよ。人は店頭で手に取ることすらしないだろう。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。
 攻撃性への抑止が外れるとき
   では攻撃性の抑止はどのような時にはずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。 
1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。私が特に注意すべきなのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはいかに筋違いで身勝手な考えに思えても、その人の暴力への抑止は外れてしまうのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それは顕著かもしれない。しかしそれ以外にも偶発的、ないしは理不尽な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。原因不明の暴力の突出も、当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。
 2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
加害殺傷のファンタジーには、それを実際に行動に移すことへの恐怖と罪悪感という強力なストッパーがかかっていると述べた。すると恐怖や罪悪感がそもそも希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか?あたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 活動性や動きにより「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮。それに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はない。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸にあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
他人の感情を感じ取りにくい病理として、私たちはまずはサイコパス、ないしはソシオパスと呼ばれる人々を思い浮かべるであろう。いわゆる犯罪者性格である。また自閉症やアスペルガー障害などの発達障害を考える人もいるかもしれない。確かに残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。
 まずはコアなサイコパス群についてである。彼らの多くは一見通常の言語的なコミュニケーション能力や社会性を有し、そのために他人を欺きやすい。2001年の大阪池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも何度も結婚までし遂げている。なぜ他人の痛みがわからない人がかりそめにも社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。
 最近わが国でも評判となっている著書で、ジェームス・ファロンは大脳の前頭前皮質の腹側部と背側部における機能の違いを説明する(4)。前者はいわば「熱い認知」に関係し、情動記憶や社会的、倫理的な認知に対応し、後者は「冷たい認知」すなわち理性的な認知を意味する。そしてサイコパスにおいては特に前者の機能不全が観察されているとする。それに比べてむしろ後者の「冷たい認知」に障害を有するのが自閉症であるとする。
 そこでこの自閉症を含む発達障害に目を転じてみよう。実は過去20年の間に起きた殺人事件で加害者にアスペルガー障害が疑われたケースはかなりある。そのためにこの障害自体が攻撃性や加害性と関連付けて見られやすい傾向にあるが、それは誤りだ。彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍していることを忘れてはならない。
 ここで他者の心を理解しにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点についても強調しておきたい。むしろ彼らの持つ秩序へのこだわりは、加害行為に対する強い抑制ともなっている可能性がある。彼らの多くは、法律や規則や倫理則を犯すことを生理的に受け付けない。私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れる事が出来ないという人もいる。その種の「決まり」を守らないことは、彼らにとっては「キモチわるく」、感覚的に耐えられないようだ。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
今年(2015年)の文芸春秋5月号に、「酒鬼薔薇」事件(1997年)の犯人Aの家裁審判「決定」全文が載せられている(5)。これを読むと、一見ごく普通の少年時代を送った少年Aが猟奇殺人を起こす人間へと変貌していく過程を克明に見ることが出来る。思春期を迎えると、悪魔に魅入られたように残虐な行為に興奮し、性的な快感を味わうようになる。少年Aの場合は、性的エクスタシーは常に人を残虐に殺すという空想と結びついていたという。米国ではジェフリー・ダーマーというとんでもない殺人鬼がいたが、彼の父親の手記を読んだときもほぼ似たような感想を持った(6)
私たちの持つ性的な空想の大半は、同世代の異性に向けられる。しかし一部にとっては、性的空想の対象は同性である。また一部の人にとってはそれは小児に向けられたものであり、またごく一部はその対象をいたぶることでその興奮が倍加し、そしてごくごく一部が、不幸なことではあるが、殺害することでエクスタシーを得るのである。
 4.突然「キレる」場合
殺傷事件の犯人のプロフィールにしばしば現れる、この「キレやすい」という傾向。犯罪者の更生がいかに進み、行動上の改善がみられても、それを一度で帳消しにしてしまうような、この「キレる」という現象。秋葉原事件の犯人には、中学時代から突然友人を殴ったり、ガラスを素手で叩き割ったりするという側面があった。池田小事件の犯人などは、精神病を装ったうえでの精神病院での生活が嫌で、病棟の5階から飛び降り、腰やあごの骨折をしたという。これは自傷行為でありながらも「キレた」結果というニュアンスがある。DSM-5の診断基準では、「間欠性爆発性障害」という名を冠するこの障害は、実はおそらくあらゆる傷害事件の背景に潜んでいる可能性がある。 
以上攻撃性への抑止が外れる4つの状況を示したが、現実にはこれらはおそらく複合し、それが凶悪事件を犯す人々のプロフィールをかなりよく描写しているのであろう。
 これらの4つのうち、2番目と4番目に関しては、そこにサイコパスたちの持つ脳の器質的な問題が影響している可能性があると筆者は考える。殺人者の半数以上に脳の形態異常や異常脳波が見られるということが指摘されてきた。最近のロンドンキングスカレッジのブラックウッドらの研究によると、暴力的な犯罪者は脳の内側前頭皮質と側頭極の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の量が少ないという。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。(
http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507Study finds psychopaths have distinct brain structure.) 前出のファロンの著書も同様の結果を報告しているのだ。
 治療的介入の新理論
犯罪を繰り返す反社会的パーソナリティ障害、サイコパス、犯罪者性格などといわれる人々に対する治療は、原則としてあり得ないというのが従来からの考えであった。ただしかつては彼らを治療しようというヒロイックな試みもあった(7)1960年代にアメリカの精神科医バーカー氏が、ある治療的な実験を行ったという。彼が唱えたのは、「サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療が可能である」という説だった。彼は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋に、若く知性を備えたサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDS(幻覚剤)を投与し、互いの結びつきを確認しあい、心の奥底を話し合うといったプロセスを行った。しかしそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。彼らが学んだのは、どのように他人に対する共感をうまく演じるか、ということだけだったという。
 以下に「入門 犯罪心理学 原田隆之著」(8)を参考にして記述してみたい。このような悲観論を代表するものとしては、1970年代に有名なアメリカのマーチンソンの研究があったという。それに基づきアメリカは犯罪の厳罰化の方向に動いたという経緯があった。しかし後にマーチンソンの見解は誤りであるということがわかったという。彼が治療と見なしていたものの中には、保護観察、刑罰、刑務所収容の対象者までも含まれていて、改めて治療的なものだけを選んで調査をした結果、約半数に治療効果がみられていることがわかったのだ。それに代わりリプセイという研究者により、犯罪者の治療についての研究がまとめられたが、それはそれまでの悲観論を大きく変えるものであった。
そのリプセイの研究によれば、その主張は以下の3点にまとめられるという。1.処罰は再犯リスクを抑制しない。2.治療は確実に再犯率を低下させる。3.治療の種類によって効果が異なる。1.については、拘禁や保護観察は逆にわずかだが再犯率を上げてしまうという。これについては一見常識的な考え方が通用しないというのは驚きでもあるし興味深い。2.はこれまでの治療悲観論への反論とも言える。適切な治療を行った場合の再犯率が35%、行わなかった場合が65%であるというのだ。そして3.適切な治療とは、認知行動療法、行動療法であり、それ以外の療法、たとえば精神分析やパーソンセンタード・セラピーなどでは再犯率にほとんど影響はなかったという。また治療を行うなら拘禁下よりも社会で行う方がいいとも述べられている。
 アンドリューズとホンダという研究者はこれらの理論を踏まえて治療の「RNR3原則」というものを導いている。それらのうち特にニーズ原則について紹介しよう。アンドリューズらは犯罪に関する8つのリスクファクターを抽出した。①反社会的認知、②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみ、④反社会的交友関係、⑤家庭内の問題、⑥教育、職業上の問題、⑦物質濫用、⑧余暇使用である。そして犯罪者が有する個々のファクターに対応した治療を行うというのが、このニーズ原則なのである。そしてこれらのうち特に重要となるのが、①反社会的認知である。
 この反社会的認知とは、たとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「やつらをポアするのは人類を救済するためだ」というような思考であり、それに従うことで、現実の他者への攻撃性の抑止が外れてしまうというようなものだ。
 私がこれまで述べた4タイプについても、独特の反社会的な認知がみられるのであろう。そのことを踏まえつつ、それぞれの4タイプについての私自身の治療方針を示したい。
具体的な治療的介入の試み-筆者の場合
 1.怨恨、復讐による場合
このタイプでの典型的な反社会的認知は、「私は相手により深く傷つけられた」、「私は相手により人生を台無しにされた」というものであろう。ただしこの認知は彼らの人生体験そのものから醸成されている可能性があり、彼らにとってのアイデンティティにすらなっている。生育環境から生じた親への恨みや極端な自己価値観の低さは、一時的な治療的介入で癒せるものではないことは、経験ある臨床家であれば十分承知しているはずだ。
 しかし私は彼らの認知を是正することとは違った視点から、これらの人々の暴力の暴発を遅らせることが出来る可能性は残されていると思う。すでに例として出している秋葉原事件の犯人の場合には、彼が事件の実行の直前に体験したのは、インターネットで誰も彼のスレッドに書き込みをしてくれない、という激しい失望だった。それが彼の世間に対する恨みを急激に高めたわけだが、コフートの言う自己対象的な機能を果たす存在があったら、彼の孤立無援さや絶望感を少しでも和らげ、後の暴発を防ぐことになったかもしれない。もちろんそれは一時しのぎでしかないかもしれないが。
 なお被害妄想が統合失調症や妄想症によるものである場合には、抗精神病薬が功を奏する可能性は十分にあろう。ただし当人が服薬を断固拒否する可能性もまた高いために、この手段も無効である場合がある。
 2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
いわゆるサイコパスや情性欠如と呼ばれる人々や、自閉症スペクトラムを有する人のごく一部においては、加害殺傷の際に、相手を単なる「もの」と見なすような思考が典型的な形で見られる。「人間だって食用の牛や豚と同じ動物ではないか」という類の思考である。すでに解説したとおり、相手の痛みは知的なプロセスを経ることなく、それこそ動物でも直感的に感じ取れるものである。それを認知の是正により根本的に解決することは不可能に近いであろう。それは色覚異常の人が天然色を体験することが不可能なのと同様である。おそらくコアなサイコパスは、認知療法的な治療に最後まで抵抗するのではないか、という悲観論を私は持っている。
 3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
このケースに関しては、彼らの認知的な歪みを是正する可能性はさらに小さいと考えざるを得ない。いかなる理性的な思考を持たせようとしても、自らが得る快感がそれにはるかに勝っているとしたら、認知療法の効果も限られているように思う。その意味ではこのタイプの加害者の治療は、薬物依存の患者に対する心理療法的なアプローチと同様の困難さを伴うであろう。
 このタイプの加害者に対しては、むしろ生物学的なアプローチがより有効かもしれない。実際の去勢はさすがに倫理的な問題があるにしても、科学的な去勢、すなわち薬物により男性ホルモンを低減させるということで、若干の効果がみられることがある。ただしむろん万能ではない。私も米国時代に経験があるが、人を縛って快感を得るという思春期の男性患者に、黄体ホルモンの注射を毎週施した結果、テストステロンは限りなくゼロに近付いた。しかしそれでも病棟でこっそりと他の患者を縛っていたということが発覚してガッカリしたしたという思い出がある。
 もう一つこれは精神医学の教科書にはあまり書いていないが、抗うつ剤の使用が有効である場合もあるのだ。特にSSRISNRIといった抗うつ剤には、性欲減退という副作用があり、私はある露出癖のある中年患者に用いて、良好な結果を得られた経験がある。
 

4.突然「キレる」場合
高い衝動性を有する患者には、脳の器質的な問題が考えられ、精神科領域では主として抗てんかん薬やリチウム、抗精神病薬などが用いられてきた。そのほか、オキシトシンでも効果が期待できる可能性があろう。(オキシトシンは扁桃核を抑制する働きが知られている。)しかしその効果は決して高くはない。そのほか怒りのコントロールについての行動療法的なアプローチもある程度は有効であろう。
 最後に
本稿では攻撃性や暴力について精神医学的な考察を行った。しかし本稿で論じたようなサイコパスが生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまったりした場合などうだろうか。真に私たちが備えなくてはならないのは、社会適応をそれなりに遂げ、権力にまで結びついた攻撃性や暴力かもしれないのだ。 
参考文献

(1)Jan Abram The Language of Winnicott: A Dictionary of Winnicott's Use of WordsKarnac Books. 2007
(2)Robert White Motivation reconsidered: The concept of competence. Psychological Review, 66:297-333. 1959
(3)山極寿一 『暴力はどこからきたのか』 NHK Books 二〇〇七
(4)ジェームス・ファロン 著、影山任佐 訳  『サイコパス・インサイドある神経科学者の脳の謎への旅』  金剛出版 二〇一五 (James FallonThe Psychopath Inside: A Neuroscientist's Personal Journey into the Dark Side of the Brain. Current; Reprint edition, 2014)
(5)文芸春秋
(6)ライオネルダーマー 著、 小林 宏明 翻訳 『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』 早川書房、一九九五
7)ジョン・ロンソン著、古川奈々子訳 『サイコパスを探せ!:「狂気」をめぐる冒険』 朝日出版社、二〇一二 
(8)原田隆之 『入門 犯罪心理学』 ちくま新書、二〇一五