2015年6月11日木曜日

あきらめと受け入れ(推敲後) (4)

あきらめと「老いと死」

あきらめや受け入れの問題は、究極的には、老いと死の問題に結びつく。あきらめの最終形態は、自分という存在の消滅、すなわち死を受け入れることである。あきらめのテーマが、私たちの死への恐れや不安を軽減してくれないのであれば、あまり論じる意味はないだろう。あきらめの議論は私たちにとっての救済でもあるべきだ。
死すべき運目を受け入れる前に必然的に生じるのが、自分の持っている身体能力、健康、認知能力、若さと美貌、財産、友人、家族を一つ一つ失っていく過程である。生きるということはある意味では非常に残酷である。体力や知識や経験を獲得していく期間はそれに夢中であり、またそれなりの苦痛を伴う。そうして一通り自分の立ち位置を築いたと感じ、一息ついたときには、すでに人生は下り坂なのである。あとは経験値や社会的な地位はある程度は自然に増していくかもしれないが、それ以外のことについてはことごとく失われていくのだ。
 私が興味深く思うのは、この老いと死の問題は、おそらく私たちの思考の中から、あるいは精神療法のテーマとして常に抑圧され、忘れられているということである。フロイトは私たちが抑圧するのは性的ファンタジーや攻撃性だと考えたであろう。しかしそう言いながら老いと死の問題については考えたくなかったのではないか。2000年になってからも、私のお師匠さんともういうべき小此木先生がなくなり、丸田先生がなくなり、狩野先生もなくなった。身内では母親もなくなった。どなたとも死について話す機会はなかったのである。
 しかし人は言うかもしれない。「私たちが一日ごとに年老い、死に向かっていることはあまりに当たり前すぎて、いまさら論じるまでもないことでしょう。」しかしそれにしては人は死すべき運命にあまりに準備不足で、まじかに迫った死の宣告に打ちのめされ、恐怖を覚える。あたかも死の問題は、扱うことを永遠に先延ばしにし、それが避けられない形で迫ってきたときにそれを扱うことが出来ない。
 私の基本的な立場は、米国の精神分析家 Irwin Hoffman のそれに強く影響を受けたものである。Hoffman の立場は人は死すべき運命を受け入れることにより、現在の生をより十全に生きることが出来るというものである。この考えは Heidegger に影響を受けているものの、それ自体は彼の言う弁証法的構成主義の考えに沿ったものでである。弁証法的構成主義とは、人が自らの体験を反復的、儀式的な面と・・・・・と述べるより、すでに書いた森田療法の論文に書いたものをここに再録してみよう。(省略)
  
死の受け入れ方

死は回避できない。死は恐ろしい。しかし実は対処可能なのである。それはその性質を知り、そのもの作業を生の中に組み込むという作業を通してなのである。私たちが新車を手に入れた時のことを考えよう。ピカピカの内装、アクセルを踏むと滑り出すような感覚。塗料のにおい。しかし何年か乗っているうちに必ず車は古くなっていく。塗装が剥げてくる。ワイパーがおかしな音を立てるようになる。でも構わず、車検にも出さないで乗り続ける(アメリカでの話、ということにしよう。かの地では車検はないからだ。だからスクラップ寸前の車が走っている。) やがてエンジンの掛りが悪くなり、フロンガスもぬけて冷房も効かなくなり、ある日吹きっさらしの街灯もないハイウェイの路上でエンストを起こす。ジャンプスタートをしてもエンジンはかからない。・・・そんな車の乗り方を私たちはするだろうか。おそらくしないだろう。しかし私たちは自分の体や心についてこのような「乗り方」をしている場合が多い。中身は見えにくいからなおさらだ。車ならフードを開ければかなり見えるが、体はアイパッドみたいにすべてが封入されている。いくつかあいている穴に管を通して中を調べるのは死ぬほど苦しい。そこでいつかは動かなくなる日を考えないようにしているのだ。しかしエンジンが最終的にかからなくなるにしても、何らかの備えはしておきたくはないだろうか?

 ということでどうやって死を受け入れるか。ハウツーだ。ハウツーの例として、リネハンの「徹底受容radical acceptance」の概念について述べよう。彼女の考えによれば、それは練習だという。ちょっと訳してみよう。(Radical Acceptance Sometimes problems can't be solved. Post published by Karyn Hall Ph.D. on Jul 08, 2012 in Pieces of Mind

「徹底受容は練習が必要となるようなスキルである。交通が渋滞しているとか、泳ぎに行こうと計画していた日に雨が降っている、とか、楽しみにしていたデートの日に相手が病気になった、などはいずれも何とか対応できなくてはならない。 そのようなときにはつらいが、「受容しないことの辛さ」をそこに付加しないようにしなくてはならない。愛する人を失うのは、誰にとってもつらいのだ。しかし受容はそこから回復することを意味する。現実に抵抗することは、回復を遅らす。・・・まず自分の呼吸に注意を集中せよ。あなたが持っているであろう思考、例えば「こんなはずじゃなかった」とか「これはフェアじゃない」などが過ぎ去るにまかせよう。そして自分自身に受容の言葉を与えよう。「これが現実なのだ」そしてこれを何度も何度も繰り返そう。」
結局アメリカ流の考え方はこんなものである。でもこんなんでいいんかなあ。

あきらめと感謝

ということで最後に戻ってくるテーマ。「あきらめと感謝」である。私は死を受け入れることとは感謝だという考えに最近至った。死は、自分が土に帰ることを意味する。いつか私は自己愛をコントロールすることとは、自分をアリンコと見ることだと言ったが、それどころではない。ゴミ以下の粒子に分解して消えていくことである。ということは死を受け入れることは自分が無に帰ることを受け入れることだが、それに比べて私が持っている属性はすべてが神(私は因みに無神論者だが)からのgift ということになる。すると感謝すべきものは無限ということになる。
以前国際医療福祉大学に勤めていた時、勝俣暎史(てるちか)先生に「ありがとう療法」を教えていただいた。毎日感謝すべきものを考えるというのはいいトレーニングになったが、そこで驚いたのは、感謝するということはいかに大変なことか、ということだ。感謝すべきことが無限にあるということは、たちまちその意味を見失ってしまうということだ。死を受け入れることは、そのテーマをとかく回避することで難しい。しかし感謝はそのとりとめのなさ、それが想像力を必要としていることにおいて難しい。感謝はそのテーマを私たちは回避しようとは思わない。でもそれは散歩をしながら一歩一歩足を運ぶことに感謝し、息を吸って吐くごとに生きていることを実感することのようにあまりに日常に埋没しているテーマなのである。これは祈りにしても勤行にしてもそうなのかもしれない。すぐ自動化してしまう。お寺のお坊さんは、檀家で三回忌のお経をあげながら、ゼッタイに「あと何ページか…。退屈やな。」とか「この後は家に帰ってビールを一杯やるか。」などと考えてるに違いない(失礼)