薄皮型の自己愛者-隠れナルな人たち
薄皮の人たちは、実はあまり自己愛的な人たちという印象を与えないかもしれない。それは彼らがあまり人前に出たくない、出るのが辛い、という性質を持っているからだ。だから一見人嫌いな人たち、孤独の好きな人たち、という風に見られがちだ。人前に出たがる傾向にある自己愛的な人々とは大きな違いがある。
しかし彼らもまた敏感なプライドを持ち、それが人から支持されることを強く望み、それが傷つくことを極度に恐れる。その意味では厚皮の人たちと共通しているのだ。
薄皮型の自己愛について論じたギャバードは、次のような診断基準を考えた。
2. 抑制的、内気、表に立とうとしない
3. 自分よりも他の人々に注意を向ける
4. 注目の的になることを避ける
5. 侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける
6. 容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい
3. 自分よりも他の人々に注意を向ける
4. 注目の的になることを避ける
5. 侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける
6. 容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい
ここで気が付くことは、先ほどのDSMによる自己愛パーソナリティ障害の診断基準の9項目のどれにも、かすっていないことだ。つまり薄皮型は、見かけ上一般的なNPD(つまりは厚皮型)とは全然異なる病像を示すことになる。それでいてどこが「自己愛的」なのだろうか。
ここでこのような例として考える症例を提示しよう。
Bさん(30代男性、独身、会社員)は目立たない存在である。SEの仕事はさほど楽しい、ということもなく、また帰ってからも特に趣味もない。結局パソコンでゲームをしたりしてぼんやり過ごす。同僚とのおしゃべりにも加わらず、むしろ超然として女性にも興味がないようなそぶりを示している。孤独を満喫していると思われているフシもある。しかし心の中ではいつも激しい葛藤を体験している。出会う人で会う人、みなBさんのことを無視しているのではないか、と思えるのだ。立ち寄ったコンビニでも、店員の釣銭の渡し方が、自分にだけぞんざいだった気がして深く傷つく。先日は勇気を振り絞って中学時代の同窓会に出席した。すると二次会で入った居酒屋で注文を取りまとめた元クラスメートが、店員さんに伝える際にBさんの注文だけ思い出せなかった。Bさんは自分だけが仲間外れにされ、いなくてもいい存在だと思い、そのことが数日頭から離れなかったという。このようなBさんだが、人との交流を求めていないわけではない。むしろ自分の存在を認めてほしいと強く思う。ただその仕方がわからないのだ。だからアマゾンで本を注文し、自動的に送られてくる注文受注の確認のメールさえ、Bさんはかすかな喜びを感じたりもする。
1 批判や拒絶に対する恐れのために、職業、学校活動を避けている。
2 好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない。
3 親密な関係でも遠慮がちであり、親密となるには批判なしで受け入れられていると確信したり、繰り返し世話をされるということを必要とする。
4 批判などに過敏であること。
5 不適切という感覚や低い自尊心があるため、新しい対人関係では控えめである。
6 自分が劣っていると感じている。
7 新しいことに取り掛かりにくい。
(以上の基準の4つ以上を満たす必要がある)。
そこでBさんのことを考えてみよう。典型的な厚皮のAさんとどこか共通点はないだろうか? それは自分を認めてほしい、という強烈な願望なのである。この回避型の基準の2に注目していただきたい。「好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない」とある。これは言葉を変えるならば、自分が拒絶されないと確信できるような相手となら、安心して自分を表現できるということなのである。
そう、薄皮の人にあるのは、自分の存在を認めてほしいという願望であり、それは厚皮の人と変わりないのだ。ただ彼らは勇気がなくて、それを表に出すことが出来ない。
そう、薄皮の人にあるのは、自分の存在を認めてほしいという願望であり、それは厚皮の人と変わりないのだ。ただ彼らは勇気がなくて、それを表に出すことが出来ない。