2015年6月19日金曜日

自己愛(ナル)な人(7/200)

薄皮型の自己愛者-隠れナルな人たち
薄皮の人たちは、実はあまり自己愛的な人たちという印象を与えないかもしれない。それは彼らがあまり人前に出たくない、出るのが辛い、という性質を持っているからだ。だから一見人嫌いな人たち、孤独の好きな人たち、という風に見られがちだ。人前に出たがる傾向にある自己愛的な人々とは大きな違いがある。
 しかし彼らもまた敏感なプライドを持ち、それが人から支持されることを強く望み、それが傷つくことを極度に恐れる。その意味では厚皮の人たちと共通しているのだ。
薄皮型の自己愛について論じたギャバードは、次のような診断基準を考えた。
 1. 他の人々の反応に過敏である
2. 抑制的、内気、表に立とうとしない
3.
自分よりも他の人々に注意を向ける
4.
注目の的になることを避ける
5.
侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける
6.
容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい
ここで気が付くことは、先ほどのDSMによる自己愛パーソナリティ障害の診断基準の9項目のどれにも、かすっていないことだ。つまり薄皮型は、見かけ上一般的なNPD(つまりは厚皮型)とは全然異なる病像を示すことになる。それでいてどこが「自己愛的」なのだろうか。
ここでこのような例として考える症例を提示しよう。
Bさん(30代男性、独身、会社員)は目立たない存在である。SEの仕事はさほど楽しい、ということもなく、また帰ってからも特に趣味もない。結局パソコンでゲームをしたりしてぼんやり過ごす。同僚とのおしゃべりにも加わらず、むしろ超然として女性にも興味がないようなそぶりを示している。孤独を満喫していると思われているフシもある。しかし心の中ではいつも激しい葛藤を体験している。出会う人で会う人、みなBさんのことを無視しているのではないか、と思えるのだ。立ち寄ったコンビニでも、店員の釣銭の渡し方が、自分にだけぞんざいだった気がして深く傷つく。先日は勇気を振り絞って中学時代の同窓会に出席した。すると二次会で入った居酒屋で注文を取りまとめた元クラスメートが、店員さんに伝える際にBさんの注文だけ思い出せなかった。Bさんは自分だけが仲間外れにされ、いなくてもいい存在だと思い、そのことが数日頭から離れなかったという。このようなBさんだが、人との交流を求めていないわけではない。むしろ自分の存在を認めてほしいと強く思う。ただその仕方がわからないのだ。だからアマゾンで本を注文し、自動的に送られてくる注文受注の確認のメールさえ、Bさんはかすかな喜びを感じたりもする。
 このBさんも自己愛者と呼べるのだろうか、と思う方もいらっしゃるかもしれない。実際米国でもこの種の薄皮型自己愛がそれでも自己愛と呼べるのかどうかについては、色々見解が分かれるところだ。人によっては、いわゆる回避性パーソナリティ障害が該当するのではないか、という考えもある。ちなみに回避性パーソナリティ障害とは次のような基準を満たす人たちだ。DSM-5によれば、

1 批判や拒絶に対する恐れのために、職業、学校活動を避けている。
2 好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない。
3 親密な関係でも遠慮がちであり、親密となるには批判なしで受け入れられていると確信したり、繰り返し世話をされるということを必要とする。
4 批判などに過敏であること。
5 不適切という感覚や低い自尊心があるため、新しい対人関係では控えめである。
6 自分が劣っていると感じている。
7 新しいことに取り掛かりにくい。
(以上の基準の4つ以上を満たす必要がある)。
 どうだろうか? DSMの自己愛パーソナリティ障害よりは、こちらの回避型パーソナリティ障害によほどあてはまると言えるだろう。ではどうして薄皮型の自己愛、という概念を設け、このような人々も自己愛の問題と見なすことにどのような意味があるのだろうか?
そこでBさんのことを考えてみよう。典型的な厚皮のAさんとどこか共通点はないだろうか? それは自分を認めてほしい、という強烈な願望なのである。この回避型の基準の2に注目していただきたい。「好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない」とある。これは言葉を変えるならば、自分が拒絶されないと確信できるような相手となら、安心して自分を表現できるということなのである。
 そう、薄皮の人にあるのは、自分の存在を認めてほしいという願望であり、それは厚皮の人と変わりないのだ。ただ彼らは勇気がなくて、それを表に出すことが出来ない。