2015年6月20日土曜日

自己愛(ナル)な人(8/200)

しかしジュリー・ハンプさんのオキシコンティン問題は随分過熱報道されている気がする。彼女を極悪人のように報道するのは、いかがなものか。麻薬入りの鎮痛剤は、米国では頻繁に処方される。私も親知らずを抜いたときに、別にリクエストもしていないのに3日分処方された。飲まずにとっておいたら古くなって結局捨てたが。麻薬の問題は日本人の潔癖症と関係しているのかもしれない。報道されていたように、、麻薬の処方がもっともゆるいのがアメリカ、もっとも厳しいのが日本なのだろう。


薄皮の人たちのキーワードは「恥」である

ギャバード先生の示した「薄皮の自己愛者」の診断基準6は、「羞恥や屈辱を感じやすい」である。実はこれが薄皮型自己愛にとって決定的に重要だ。
 それは恥の感覚である。
 恥とは自分が人に比べて劣っていたり、弱い存在だったりすることを自覚することに伴う、強烈な苦痛だ。そしてそれが特に対人場面で、つまり実際に誰かと対面をしていて起きやすいのが特徴的なのだ。おそらくこの感覚を多かれ少なかれ体験しない人はいないだろう。ただそれが極端な人たちが、この「薄皮」の自己愛の人たちなのである。「薄皮」とは要するに感じやすさ、敏感さ、ということである。ツラの皮が薄い、とは要するに傷つきやすいということだ。
 Cさんのことを再び考えよう。Cさんは基本的に対人場面が苦手である。おそらく非常に相手に気を使い、相手が自分をどのように感じているかが気になって、自分が何を言いたいか、何を感じているかに集中できない。まるで自分がなくなってしまったかのような感じがするのだろう。このような敏感さには、たぶんに生まれつきの性格傾向が関係している。生まれつき新しいことが苦手で、刺激に対してはしり込みするような赤ん坊が見られる。そのような赤ん坊の多くは、将来も引っ込み思案で敏感な傾向を示すようになる。
 ところでCさんの性格で特にややこしいのは、このような感情を人前で体験しているということ自体を恥に思い、隠そうとすることだ。その結果としてCさんはいつも孤高を装い、超然としているという印象を周囲に与える。彼がさびしそうに、人懐こそうにしている場合にはまだいいのだろう。周囲もそのようなCさんに気を許し、時には誘ってあげようと考えるだろう。ところが周囲はそのようなCさんに逆に最初から拒絶されているように思ってしまう。そして余計に距離をおこうとするのだ。ちなみにCさんの同僚から聞いた話では、Cさんはいつも笑顔を見せることが少なく、仏頂面で話しかけにくい印象を与えているとのことだった。
 このようなCさんには、もう一つの強気な、あるいは頑固な側面があるともいえる。それは自分の恥の感情を無理やり押し隠し、強気で押し通すということである。これが彼の対人関係上の問題をさらに難しくしていると言えるかもしれない。それが「面の皮の薄さ」と共存するのか、と疑問をもたれるかもしれない。しかし共存できるのである。「面の皮の薄さ」はもっぱら対人場面で発揮される。彼らに一番苦手なのは人前なのだ。しかしそれ以外では意外と負けん気が強く、意地っ張りな人は多い。
「厚皮」と「薄皮」は表裏一体である
さて以上は「厚皮」と「薄皮」をわざと対立的に描写した。しかしこれは少し極端ともいえる。実は「厚皮」も「薄皮」も私たちがみな少しずつ持っている傾向と言えるのだ。人間は物事が調子よく言っている場面では、結構強気になり、自己愛的な満足を得ることに積極的になれる。しかしそうでない場合にはむしろ自分に自信がなく、恥をかくことにおびえて引っ込み思案になりやすい。この両極端を持つというところが、まさに自己愛の病理なのだ。いわば「厚皮」と「薄皮」は同じ自己愛の病理の両面ともいえる。それはどうしてだろうか?
「厚皮の自己愛は叩き上げ」、という言葉を思い出していただきたい。最初から厚皮な人は例外なのだ。最初はみな薄皮で、上位の人たちにおびえ、あるいは取り入ることで自分の小さい自己愛を満たしていく。そして上に取り入り、下を支配するという階段を上っていく。上に対しては「薄皮」で、下に対しては「厚皮」で対処する両面性を持つことが自己愛な人の生き方である。(もちろんそれがいいとは言えないまでも、多かれ少なかれ、人間社会で生きていくとはそういうことだ。)
もちろん先ほども述べたとおり、生まれつき薄皮の人はいる。その人たちは「薄皮の自己愛者」の一番の候補者といえる。しかし気が弱く批判に敏感というのは、社会の最下層から上を目指す人たちの共通した特徴とも言えるだろう。
事例)
ある中年の内科医。某病院の科長をしているが、強引でワンマンだという評判である。自分の決めたルールには、部下の医師も看護スタッフもすべて従うことを徹底し、気に入らない部下に対しては、しばしば声を荒げて叱責する。しかし大学の大先輩である内科教授を招いての親睦会では、末席に位置して大教授に完全服従の姿勢を取り、その猫なで声に彼の部下一同が唖然とする。立食パーティの席で大教授に食事を取分けて運ぶ課長の姿がとりわけ印象的であり、そこにはいつもの課長とは全く異なる姿が見られた。
このような姿は取り立てて事例として出すまでもないかもしれない。この課長ほど極端ではないとしても、縦割りの社会に生きる人間にはしばしばみられる姿であろう。問題は上に媚びる極端さが、下への態度の傲慢さと比例する傾向にあるということだろうか。