2015年6月1日月曜日

あきらめと受け入れ (6) 


もういい加減にこのテーマはこれで最後にしよう。私の中では感謝により静かに死を受け止めるという姿勢とは異なったもう一つの姿勢が思い浮かぶ。それは「十分に生ききったのか?」という事だ。悔いのない人生。いつ死んでもいいという覚悟で生きるという姿勢である。ある一事に命をささげるという人にとってはそのような思考になるのだろう。大河ドラマの影響か?
 少し外れるかもしれないが、私は「後悔」ということがよくわからない。おそらく「~すればよかった」「しなければよかった」思うことが極端に少ないのだろう。もちろんこれまでに沢山の失敗があり、「もしあの時ああすれば、きっとこうなったはずだ」という思考が働くことはいくらでもある。しかしそれが何度も頭に去来して、悔いが残る、というのはわからない。だってもう終わってしまったことだから。おそらく悔いは私たちの脳にとって一種のバグではないかと思う。その意味では強迫と似ている。強迫も物事を念を入れて行うための確認作業というそれ自体は必要な作業が暴走した状態だ。悔いも、過去を振り返って過ちを繰り返さないための反省が、暴走した状態。両方とも脳のプログラミングの異常だろう。幸いに脳にその種の異常事態が起きていないのだろう。だから起きたことをそのまま受け止めるという方針に従っている。決して難しい話ではなく、動物は皆こうしているのだろう。どこかにも書いたが、二頭の雄シカが角を突き合わせて戦いをし、負けた方が去っていくとき、「あの野郎、今に見ていろ!」と恨んだり、「あそこでフェイントを掛ければよかった」と後悔は決してしない。負けを受け入れてすごすご退散するのみだ。
 私が後悔しない一つの根拠は、人生は余りにも多くの偶然の積み重ねだからだ。昔アメリカでFLEXという試験を受けたことがある。それに通らないと精神科のレジデントに応募できない。一度落ちてあきらめていたら、ある日手紙が来て、「FLEXのテストの問題にひとつ間違いが見つかり、採点のし直しとなり、あなたは繰り上げ合格になりました。」と書いてあった。私はそこで急いで、期限の迫ったレジデントのマッチングに応募して、ぎりぎりでレジデント先を見つけることができた。それからは比較的順調に行った。私たちの人生はこの種の偶発事が重なって展開していく。一事を悔やんでも、実はそのほかの偶発的に生じているはずの恩恵について考えないと意味がないではないか。私は一つ問題の間違いがあったことに感謝するべきだろうが、本来その種の間違いがなければ私はすんなり合格していて余裕でマッチングに入ることができたという事になる。どっちだって同じようなことだ。
私達はおそらく数多くの人の恩恵にあずかっている。でもほとんど感謝することを忘れている。運が良かったことは忘れて、悪かったことだけ覚えている。人への感謝はせずに、恨みだけはする。これは私たち人間の本性なのだ。私はHoffman にも助けられて(感謝!)このことを知的には理解している。日常生活の大半は忘れているが。だからこの問題に立ち返ると今の自分がいかに多くの人の恩恵にあずかり、幸運に支えられているかがわかる。あきらめることと受け入れることと感謝すること。それは実は一つのことなのである。