2015年5月31日日曜日

あきらめと受け入れ (5) 

中国による南シナ海の埋立。米中の応酬はどうなるのだろう?

しかしそれにしてもどうしてこのテーマにこだわっているか。まあ一つには「日本語何とか」で発表しなくてはならないからだが(ナンの話だ)、私たちにとって死をどう受け入れるかはそれこそ知性を備えた人間として決して避けられない問題だからだ。
死は回避できない。死は恐ろしい。しかし実は対処可能なのである。それはその性質を知り、そのもの作業を生の中に組み込むという作業を通してなのである。私たちが新車を手に入れた時のことを考えよう。ピカピカの内装、アクセルを踏むと滑り出すような感覚。しかし何年か乗っているうちに必ず車は古くなっていく。塗装が剥げてくる。ワイパーがおかしな音を立てるようになる。でも構わず、車検にも出さないで乗り続ける(アメリカでの話、ということにしよう。日本なら捕まってしまう。) やがてエンジンの掛りが悪くなり、フロンガスもぬけて冷房も効かなくなり、ある日吹きっさらしの街灯もないハイウェイの路上でエンストを起こす。ジャンプスタートをしてもエンジンはかからない。・・・そんな車の乗り方を私たちはするだろうか。おそらくしないだろう。しかし私たちは自分の体や心についてこのような「乗り方」をしている場合が多い。いつかは動かなくなる日を考えないようにしているのだ。しかしエンジンが最終的にかからなくなるにしても、何らかの備えはして置きたくはないだろうか?

ということでやはり最後に戻ってくるテーマ。それは「あきらめと感謝」である。私は死を受け入れることとは感謝だという考えに最近至った。死は、自分が土に帰ることを意味する。いつか私は自己愛をコントロールすることとは、自分をアリンコと見ることだと言ったが、それどころではない。ゴミ以下の粒子に分解して消えていくことである。ということは死を受け入れることは自分が無に帰ることを受け入れることだが、それに比べて私が持っている属性はすべてが神(私は因みに無神論者だが)からのgift ということになる。すると感謝すべきものは無限ということになる。
以前国際医療福祉大学に勤めていた時、勝俣暎史先生に「ありがとう療法」を教えていただいた。毎日感謝すべきものを考えるというのはいいトレーニングになったが、そこで驚いたのは、感謝するということはいかに大変なことか、ということだ。感謝すべきことが無限にあるということは、たちまちその意味を見失ってしまうということだ。