2015年6月16日火曜日

自己愛(ナル)な人(4/200)

厚皮の自己愛者の困った問題 ― 怒りを周囲にぶつけること
私がなぜこの厚皮タイプを最初に論じているかについて説明しなくてはならない。なぜならこの厚皮タイプは自己愛的な人の一つの典型であるとともに、周囲を巻き込んでいい意味でも悪い意味でも大きな影響を及ぼすからである。
その中でも最も困った問題は、この種の自己愛者は周囲に怒りをぶちまけることである。そのぶちまけ方は様々だ。会社の管理職にある場合は、部下を怒鳴りつける。教師の場合は学生をしかりつける。運動部の顧問なら部員をシゴキまくるかもしれない。もちろん親の場合は子供に対する暴力、パートナーの場合は相手へのDVという形をとるかもしれない。
Aさん(30代男性)は、会社の職場の新しい上司B課長とうまくやっていけずに悩んでいた。Aさんが口下手であまり周囲と交わろうとしない彼のことが気に入らないらしい。B課長は新しい職場で早く部下となれようと、仕事の後連れだして飲みに行くことが多かった。Aさんも最初の何回かは付き合っていたが、間が持たず、またしばらく前からアルコールを断っていたこともあり、そのうち誘いを断るようになった。それがB課長の気分を損ねたのだ。それからB課長はAさんだけにはほかの部下とは違い露骨に陰険な態度で接するようになり、Aさんのちょっとしたミスで詰問を長々とするようになった。職場の同僚たちもB課長の行為を一種のパワハラと感じ、陰ではAさんに同情するものの、同じような目に遭いたくないためにB課長の言うことには絶対服従という雰囲気が出来上がり、Aさんはそのうち抑うつ症状を来すようになり、精神科を受診した。

 厚皮のナルシストがプライドに傷がつくようなことを言われたりされたりすると、猛烈な勢いで怒るのはどうしてだろうか? それは相手を叩き、凹ますことで、強烈な恥の感情を和らげることができるからだ。
  厚皮のナルシストは、自己愛の風船をいつもパンパンに張りつめている。それを傷つけられるようなことを言われると激しく心が痛む。それが恥の感情だが、恥は自分が見くだされたり価値下げされたときに生じる感情だ。最近の言葉で言えば、自分が「駄目出し」された時の気持ちである。その時にそれを和らげるのは、相手をダメ出しし返すこと、つまりは叩き凹ますことなのである。相手を叩くことで、自分のへこみを相対的にあげようという、かなり無茶で強引な手段だ。でもそれで当面の恥による痛みは少しは和らぐのである。
 さらにここでややこしいのは、上司にとっては自分の傷つきや恥の感情を周囲に、特に部下に知られることなどもってのほかなのである。それこそ自分の弱さを周囲に示すことになり、そのような事態だけは絶対に避けたい。するとともかくも攻撃に回る、ということしか頭になくなってしまうのだ。
先ほどの例では、上司であるB部長は、Aさんが飲み会の誘いを断ったことで、自分の自己愛の風船を傷つけられた。Bさんのイメージの中では、彼の飲み会の誘いを平気で断る人などだれも存在してはならないのである。そこでB部長は反撃に出る。それがAさんに対する苛めやパワハラなわけだが、実はAさんにとっては、B部長がそんなことで傷ついていることなど想像できない。部下にとって自己愛的な上司はまるで神様のように映ることが多い。つまりきわめて強力で、部下などによって傷つくような存在には思えないのだ。そこで一方的に怒鳴られ、ダメ出しをされる。その時は「なぜかわからないけれど怒られる。きっと自分の方に落ち度があったのだろう」と思うしかない。相手が自分の傷つきやすいプライドのせいで、理不尽にもこちらに「仕返し」をしてきているという構図が読めないのである。
  
「厚皮」は無関心、想像力の欠如でもある

これまでの記述で、私は「厚皮」はその人の性格で、いわば持って生まれたもの、という印象を与えたかもしれず、それなら誤りである。いや、確かに「生まれつきの厚皮」もいるかもしれない。後に出てくる「サイコパス」タイプの自己愛者は確かにそうだ。しかし「厚皮」の多くは、「たたき上げ」である。つまり若いころから「厚皮」タイプのナルシストに仕えてきた人たちだ。ニホンザルの脳波の活動の例を思い出してほしい。ボスざるは脳をあまり働かせないのは、相手に気を使っていないのである。しかし下位のサルは一生懸命ボスざるに気を使う。しかしもともとボスざるは下位にいた時に一生懸命気を使ったのと同じ猿だ。つまり「厚皮」はボスという地位が二次的に作り上げたものと考えることができる。もともと厚皮のサルが上位に上り詰めたわけではない。もちろん小さいころから厚皮のサルもいたかもしれないが、サル社会では「生意気な奴だ!」とたちまち上位のサルにボコボコにされて生き延びることすらできなかっただろう。
では結局「厚皮」は何かといえば、それは上位に立ったものが、周囲の心に関心を示さなくなる、想像力を働かせなくなる、ということに尽きるであろう。どうしてそうなるかは難しいが、社会で支配的な階層に属するようになった人がことごとく「厚皮」の自己愛者としての振る舞いを見せることを考えると、火とは元来、他人の心に想像力を働かせるのは苦手であり、本来は気乗りがしないことだということを表している。想像することとは、一種の精神の労働である。それはエネルギーを必要とし、集中の後の疲労感を生む。あたかも地下鉄で地上階に出るために圧倒的多数の人が階段よりもエスカレーターに向かうように(私も結局いつもそうしている)、人は想像力を働かせなくてもいいのであれば、できるだけそれを避けようとする。
もちろん自分の目の前で苦しんでいる人や動物を見たら心が動かされるのが普通だ。その場合は五感から受ける情報が相手の苦しみへの共感の念をごく自然に起させるからだ。しかし自分がそれを見て見ぬふりをして通り過ぎることが許されたり、他のことに気を取られていたとしたら、たとえ目の前で起きていることでさえ、人は見なかったことにしまえるのである。