2015年6月15日月曜日

自己愛(ナル)な人(3/200)


先ずは自己愛性パーソナリティ障害の定義である。DSMというアメリカの精神医学の診断基準にはこうある。「誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。」
1.     
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2.     
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.     
自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
4.     
過剰な賛美を求める。
5.     
特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
6.     
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
7.     
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.     
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.     
尊大で傲慢な行動、または態度


厚皮の自己愛者 (見分け方は、恥をかかされると怒ることである)

厚皮の自己愛者と、薄皮の自己愛者という分類が、精神科の世界では行われる。実は精神医学では自己愛パーソナリティの話はずいぶん昔からあった。小此木先生は自己愛パーソナリティについてこう述べている。とか言って書こうとしたら、彼の1986年の「自己愛人間」はとてもよく作りこんでるんだな。さすが自己愛人間。ナンのこっちゃ。
ともかく「厚皮」、とはツラの皮が厚い、厚顔無恥、の人という意味で、あとに出てくる「薄皮」タイプと正反対である。
もしあなたがパーティや飲み会で、誰か一人がとうとうと自慢話をしたら、どんな気持ちがするだろうか?ひょっとしたら聞き惚れることだってあるかもしれない。でも大概は「いい加減にしてよ!」と思うのではないだろうか。でもこういう輩は世の中に大勢いる。会社ではいつもおとなしいと思っていた人が、少し酒が入ると延々と自分の話を披露するということだってある。
恥知らず、厚顔無恥、などと言われるが、彼らは結構社会では厚遇されている。だからこそそこまで面の皮が厚くなれたのである。彼らが自慢話を滔々とする時、周囲の呆れ、うんざりした気持ちに気が付かない理由は何か。それは周囲がそのような感情を示さずに、一見面白そうにその話に聞き入るからである。
日本社会に特有という訳ではないにしても顕著な傾向がある。それは自己愛者をそのままほっておき、その面の皮をどんどん厚くさせてしまうという事だ。年功序列、先輩のいうことには無条件に服従、という古い体質がそこに影響している。
一つの原則を示そう。
「厚皮の自己愛者の面の皮は、放置しておくと、どんどん厚くなる。」
自己愛になる、とは実は人間の性(さが)であり、人間関係で言いたいことを言い、人に命令し、わがままを通すのは、結局はそれが楽だからだ。自己愛の人は、あたかもそこに誰もいないかのように振る舞う。人がいるとすれば、それは召使のようなものだ。
 この件に関しては、面白い報告がある。「つながる脳」(藤井直敬 ()
エヌティテ出版、2009年)によれば、上位にいるサルと下位にいるサルのMRIを取ったところ、上位のサルの前頭葉はあまり活動していないのに、下位のサルのそれは活発に活動していたという。
 これはどういう事だろうか? 上位のサルの前で、下位のサルはいろいろ気を使い、失礼の無いようにし、上位のサルに気に入られようとする。その為に非常に神経を使うのだ。上司と一緒に食事をしたり旅行をしたりするという経験を持ったことがある人なら良くわかるだろう。少し時間を共に過ごす高で、へとへとに疲れ切ってしまうはずだ。それに比べて上司はおそらく平然と、何も考えずに過ごしているはずだ。そしてその方が確実に楽なのである。
自己愛的な人間はいわばそこにいる人たちに比べて上位に位置するとわかれば、もう好きなように振る舞えばいい。タバコを吸おうと、懐から取り出すと、さっと部下がライターを取り出して火をつける。灰皿を持ってくる。人前でたばこを吸うことが今ほど問題にされたかった昔は、とてもよく見かける光景だった。それこそ周囲は、ロボットのように働いて、自己愛者の欲求を満たすことに貢献する。そして等の自己愛者は自分の欲求のことしか考えていないのだ。

厚皮の自己愛者は、精神医学の世界では比較的以前から論じられてきた。
WIKI
には、ここら辺の流れがうまくまとめられている。曰く

 ナルシシズム(自己愛)という言葉の起源は、1895年にハヴロック・エリスが自己没頭的な患者を報告する際にナルキッソスの物語を引用したのが始まりとされる。1899年にはポール・ネッケが性倒錯を定義する言葉としてナルシシズムという語を用い、1909年にはジークムント・フロイトが対象愛の前段階という、より広い心理状態を指す語としてナルシシズムという言葉を用いた。1933年にはヴィルヘルム・ライヒがはじめて誇大的な人物像である男根期的自己愛性格を人格の病理として記載し[3]1946年にはオットー・フェニケルが自己愛人格あるいはドンファン性格として記載した[4]1953年にアニー・ライヒは、極端な2つの自己像に分かれ、現実的な自己像を持たない自己愛患者について報告した[5]1967年オットー・カーンバーグによる自己愛性人格構造[6]1968年ハインツ・コフートによる自己愛性パーソナリティ障害[7]の提唱により、誇大的な自己像を抱え社会生活に支障をきたす一群の疾患単位が提唱された。1980年に発表されたDSM-IIIによって自己愛性パーソナリティ障害概念が定義され、DSM-5へと引き継がれ現在に至っている。
Wiki素晴らしい!!

このまとめに見られるナルシシズムの中でやはり現在の議論につながるのは、ハヴロック・エリス、そしてカーンバーグだろう。やはり彼の議論の影響力は大きかったのだ。彼が論じたボーダーラインとともにこのナルシシズムの議論は一世を風靡し、それと並行して進んだコフートの議論との相乗効果が大きかったのであろう。それまではパーソナリティ障害というと、犯罪者性格やスキゾイドやがもっぱら表舞台を占めていた。犯罪者性格は、それこそこれがそもそも人格の議論の発端になったテーマでもあった。そしてスキゾイドは1900年代前半の統合失調症概念の登場とともに、その状態に将来なる可能性の高いパーソナリティということで論じられたのだ。