2015年6月14日日曜日

自己愛(ナル)な人(2/200)


そもそも自己愛とは?
ナルシズムの概念はギリシャ神話のナルキッソスの話にさかのぼる。ナルキッソスが森で水を飲もうとして湖の水面を見ると、美しい少年が見えた。もちろんそれはナルキッソス本人だったが、ひと目で恋に落ちたナルキッソスはそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだ、という話である。
 つまりナルシシズムとは、自分にほれ込む、自分におぼれるという意味を持つ。日本語の自己愛がその正確な訳かといえば議論があるようだが、一応ナルシシズム=自己愛、という関係はもうあまり疑問をもたれることはない。
 しかし私はこの話に最初に接した時からしっくりこなかった。私はナルキッソスは水面に浮かんだ姿を「他人の姿」と思いこんでしまったのではないかと思うのである。だから恋い焦がれたのだ。人は自分に恋い焦がれることは絶対にない。恋する対象は自分からは見えないところにいて、いくらでも想像をかき立てられる存在でなくてはならない。だから、自分を愛する、という表現は実はおかしいのだ。人を愛するように自分を愛することは出来ない。そうではなくて、自己愛とは、自分の満足を優先する傾向、ないし態度です。
昔テレビで大竹しのぶさんが、元夫の明石やさんまさんについて話していた。「この人はビュッフェ形式のレストランに行くと、一人で取りに行ってさっさと食べちゃうような人なんです。」彼女はさんまさんの自己愛的なところについて言っていたわけであり、確かに彼は自己愛的だと私も思うが、そのような態度は彼が「自分を愛していた」ということとは違う。自分の欲求の満足をほかの人のそれに優先させる傾向がある、ということだ。でも本来自分の欲求を満足させるのは当たり前のことであるし、そうやって人間は生き延びているわけです。別に「自分を愛して」いるからではない。
社会に生きる私たちは自分の満足だけでなく、それが人の満足とどのような関係にあるかに常に注意しなくてはならない。それは突き詰めて言えば、「自分が満足することで、他人の満足の機会を奪ってはいないか?」ということだ。
 社会でうまくやっていける人は自分がハッピーで、他人もハッピーな状態で本当の意味でハッピーであるということをわかっている。自分がハッピーになるためには、あまり想像力が必要ではない。特に「自分を愛して」いなくても、自然と湧き上がってくる欲望に従えばいい。でも他人のハッピーさを考えるためには、想像力と観察力がいる。つまりそれだけ頭を使うわけだ。すると自己愛の人は、他人のハッピーさを想像する力が欠けている人、ということになる。すると自分の満足のことしか考えず、他人のことを顧みないことになり、それが周囲を怒らせたり、ガッカリさせたりするというわけだ。
少しまとめてみよう。
自己愛=ナルシシズムを「自分を愛すること」と難しく考える必要はない。他人のハッピーさを想像する力が欠けている人、あるいはそのような状態を指すだけなのだ。
このようにナルシシズムを単純化して考えると、実に様々な人が、様々な状態でナルな人間として振る舞うことになる。世の中に自己愛的な人間という一群の人たちがいる、というよりは、人が他人のことを考えずに自分の満足を考えるような状態がナルシシズムなのであり、その意味ではナルシシズムは、状態像なのである。
そのうえていくつかのパターンを分けて考える意味も生じてくる。
さて本書では自己愛的な人間についていくつかに分類して論じることを目標としている。とりあえず以下の通り大雑把に分けてみよう。