2015年6月26日金曜日

自己愛(ナル)な人(14/100)

サイコパス的ナルシシストの脳はどうなっているのか?

最近の脳科学の発展には理由がある。それはある意味では脳の中が「見える」ようになってきているからだ。それは最近のコンピューターテクノロジーの発展と深く関係している。「fMRI」という機器は脳の中で起きている動きを刻々と記録することが出来る。もちろんそれで脳の働きがすべて解明できるわけではない。脳とは途方もなく複雑なシステムなのだ。しかしひとつ重要な情報が得られる。それはどの部位が、いつ活動しているか、という情報だ。するとサイコパスたちに関しては、比較的明確な情報がわかっている。
最近日本でも読者の多い、ジェームス・ファロンという脳科学者の書いた「サイコパス・インサイド」。この本はサイコパスに関する最近の脳科学の成果をまとめている。それによれば、大脳の前頭前皮質の腹側部という部分の活動が、サイコパスの人々では低下しているということだ。この部分は、人に共感し感情移入をする能力をつかさどるといわれる。つまり目の前で苦しんでいる人に対して、自分の心にも痛みを直接に体験することを通して共感する力である。ただし彼らは大脳の前頭前皮質の背側部分の機能は正常だし、私の想像だが、おそらく腹側部の機能が低下している分だけ、代償して、いわば過剰に働いているのであろう。
ひとつ驚くべきなのは、脳の共感の部分が働いていなくても、人は一見スムーズに、そしてあたかも共感の能力に優れているように行動できるという事実なのである。私の印象からは、2001年の大阪池田小事件の犯人であるT守(特にイニシャルにする必要もないかもしれないが)は、押しも押されもしない、典型的なサイコパスのナルシシストだが、彼は何度も結婚までし遂げている。これは驚くべき事実だ。かりそめにも結婚し、しばらく共同生活をするためには、かなりその人は正常であり、さらには信頼できるような印象を相手に与えなくてはならない。なぜ他人の痛みがわからない人が曲りなりにも社会性を身につけるのかについては不明だ。しかしおそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。
私たち自身を振り返ってみよう。上司の葬儀に参列するとしよう。実はほとんど会ったことがない人だったとする。その人の死去が自分の生活を直接変える要素は何もない。そのような場合、私たちはどれほど生々しい悼みの気持ちを持つだろうか? 飼っていたグッピーの「死去」の方がよほどコタえる場合だってあるのだ。それでもその上司の葬儀に参列する人たちの誰も、ニコニコ談笑したりせず、神妙な振る舞いをする。遺族に会うときには言葉にならないほどの悲しみの気持ちを伝えるかもしれない。私たちは与えられた状況でどのような表情を作り、どのような言葉を発するべきかをきわめて正確に学習するものなのである。本物の共感なしに以下に人に本心を偽装したまま隠しとおせるか、ということを示しているのだ。
 あるいは最近生まれたという親戚の写真を見せられて、「まあ、可愛い!」と声を上げるのが当たり前のようになっているが、いったい男性のどのくらいが、自分とは血のつながりのない、しわくちゃな赤ちゃんの顔を見て「可愛い」と思うのだろうか?
 (ここら辺についてはかなりの反論が予想される。確かに赤ちゃんの顔は審美的にも十分美しいとは言えないものの、私たちの心の別のボタンを押すはずなのだ。その結果として、人間の赤ちゃんを可愛いと思わなくても、犬や猫の赤ちゃんを見せられた男性は、おそらくたいていが「可愛い」と思うのではないか。しかしともかくも人間の赤ちゃんを見て可愛いと思うボタンが確かに女性には確実に備わっている気がする。これは実際に必要なことであり、そうでないと生まれたばかりの赤ちゃんに対する最初の重要な愛着が成立しなくなってしまう。アリエナイだろう。自分の赤ちゃんを見たお母さんが、「まあ、ブサイク!」とつぶやくなどということは。
それでもその自慢の赤ちゃんの写真を見せられて、絶句してしまう女性などありえない。そして写真を見せた人は「みんなも可愛いと思ってくれている!」と思うだろう。これなども「共感」部分の脳の活動を欠いても、私たちが以下に共感的に振舞えるかを示しているといえる。そしてソシオパス的な傾向にある人は、ここら辺を極めてうまく遣り通すことが出来るのだ。