教科書のイラストに誤って手が3本。そのために教科書の回収。どうしてこれが全国ニュースになって報じられるのだろうか?どこかに悪意が潜んでいるのだろうか?それとも差別問題?どのような?紙の無駄遣いをすることもどうかと思うのだが…。世の中にはわからないことが多い。
サイコパス的ナルシシストのつく嘘
サイコパス的ナルシシストのつく嘘
サイコパスの概念は興味深いし、実用性がある。人を「この人はどの程度サイコパス的なんだろう?」という視点から見るのは、その人から利用されたり搾取されたりしないためにも、とても重要なことなのだ。特にその人とあなたがビシネスパートナーになる時は、そうであろう。では恋人としてはどうか? その人とあなたの利害が完全に一致している場合には、案外あなたのことを大事にしてくれるかもしれない。ところがその利害が微妙に食い違い始めると、向こうは簡単に距離を置いたり、見捨てたりするだろう。
例えばある男性があなた(女性を想定している)に接近してくる。人当たりが良く、話も面白く、誠実にも見える。色々な能力を発揮し、仕事も順調のようだ。おまけに学歴も高く、独身と聞いて、あなたは夢中になる。しかし相手を深く知って行くうちに、細かな齟齬が気になりだし、かなり偽ったり「盛った」話をしていたりすることに気が付くだろう。最終的に貴方が知りえた彼の情報が、最初とどの程度異なっているのか、彼がどの程度あからさまな作り話をして自分を大きく見せようとしていたかは、その人のサイコパス度を知るうえでかなり信頼のおける指標となる。勤めている会社の規模や肩書が少し違っていたくらいなら目をつぶろう。しかし出身大学を偽っていたり、過去の婚姻歴が嘘であったり(実はバツイチ、子どもありと判明)であるとしたら、かなりその男性のサイコパス度は高くなるだろう。そして妊娠を告げた時に顔色が変わり、それ以降メールにすら返事が来なくなったとしたら、もうアウトである。あとで知ったところでは、離婚したとは嘘で、妻とはまだ調停中だったり、時々自宅に帰っていたりということがわかり、あなたはいわば架空の人に恋していたことに気が付くのである。
サイコパス的な人ほど相手の利益に自分の利益を優先させる。その人がどれほど優しくて、どれほど誠実に振る舞っても、それは自分のためなのだ。彼があなたの関心を引き、あなたの機嫌を取る必要がなくなった時に、初めてその人の真価が見えてくる。その際彼がどの程度の嘘までを自分に許容していたかは、その人のサイコパス度を知るうえでかなり重要な要素と言えるだろう。その意味ではサイコパス的な人の真の姿は、その人が特に気を使わなくてもいい、彼の利益に直接かかわらないような人に対しては、最初から最も良く示されるということができるだろう。
忘れられないドクターDの「アイドントノー」
米国で総合病院の精神科の勤務をしていた時のことだ。もう何年も前のことだし、登場人物は日本語がわからないから、比較的自由に書ける。パートナーのドクターDと私は高からのコンサルテーションを、時間帯で分けることにしていた。その日は午前中は私が受け、午後はドクターDが担当ということになっていた。微妙なのは、この交代間際の時間に舞い込んできた他科の精神科コンサルテーションのケースである。コンサルテーションは通常の業務の上乗せであり、病棟まで足を運ばなくてはならず、厄介な仕事だ。どちらかと言えばお互いに譲り合ってしまう傾向にある。そこで決まりを作り、それを受けたナースが、その時刻により、そのコンサルテーションの受け付け用紙の挟まったクリップボードをその先生に割り当てられた机の上に置く、という約束になっていた。
ちなみにドクターDは私より20歳も上の大先輩のメキシコ人の精神科医であった。私がレジデントの時はスーパーバイザーだったが、卒後は対等な立場である。ドクターDは陽気なラテンアメリカの豪快な気質そのものといった感じの精神科医で、スポーツで日焼けした肌に口髭が似合い、その口髭の先をサルバドールダリのように尖がらせるしゃれっ気があった。その端正な顔とともに、何とか男爵みたいな雰囲気のある人だった。声が大きく、注目を常に望んでいるような自己愛的な雰囲気を漂わせていた。ただどこかに怪しい感じ、したたかな感じがあった。一つには彼の言葉づかいにあった。彼は「I don’t know」をよく使った。彼はメキシコ人で少しの訛りはあったがほぼ完ぺきな英語を話す。しかし自分の責任を問われるようなことにしばしばこの「アイドントノー」が出てくるのである。英語の口語でのアイドントノーは「自分はそれを知らない」と言うほかに、「さあね」、「難しい問題だね」などのはぐらかしの言葉でもある。そこに彼の責任回避の傾向を感じ取ることができた。
ちなみにドクターDは私より20歳も上の大先輩のメキシコ人の精神科医であった。私がレジデントの時はスーパーバイザーだったが、卒後は対等な立場である。ドクターDは陽気なラテンアメリカの豪快な気質そのものといった感じの精神科医で、スポーツで日焼けした肌に口髭が似合い、その口髭の先をサルバドールダリのように尖がらせるしゃれっ気があった。その端正な顔とともに、何とか男爵みたいな雰囲気のある人だった。声が大きく、注目を常に望んでいるような自己愛的な雰囲気を漂わせていた。ただどこかに怪しい感じ、したたかな感じがあった。一つには彼の言葉づかいにあった。彼は「I don’t know」をよく使った。彼はメキシコ人で少しの訛りはあったがほぼ完ぺきな英語を話す。しかし自分の責任を問われるようなことにしばしばこの「アイドントノー」が出てくるのである。英語の口語でのアイドントノーは「自分はそれを知らない」と言うほかに、「さあね」、「難しい問題だね」などのはぐらかしの言葉でもある。そこに彼の責任回避の傾向を感じ取ることができた。
ともかくもコンサルテーションの話だ。私の机と彼の机はつながっていたが、その日にナースが置いた受け付け用紙のクリップボードは、二人の机の間の、でも明らかにドクターD寄りの位置であった。私はそれを見て、「ああ、正午を過ぎていたんだな。だからナースはドクターDの方に置いたつもりだったんだ。でも少し紛らわしい置き方をするな。」と思っていた。それから私は別の仕事に向かうつもりで席を外していたが、その間にドクターDがオフィスに戻ってきていた。そして一足遅れて戻ってきた私に、「ケン、タイミングが悪かったようだね。」という。ふと机を見ると、クリップボードは微妙に、しかし明らかに私の方に寄せられていたのである。そしてちょっと小細工をしたはずのドクターDは、平気な顔で昼食を取りに行く気配である。私は「やられたな」と思い、ドクターDの巧妙さ(?)を改めて知ったという訳である。
ドクターDはサイコパスだろうか? それともこのぐらいの小細工は人は結構やるのだろうし、その意味では普通のことだろうか? そしてこんなことを20年以上たってもしつこく覚えている私の方が問題だろうか? 答えはわからない。しかし先に紹介した「勝ち組は自己チューである」という記事を見ると、この手のズルはむしろ社会適応上有利に働いてしまう可能性があるという寂しい現実があるということも示しているのである。