2015年5月18日月曜日

精神医学からみた暴力(再推敲後)2

攻撃性への抑止が外れるとき

ここまで書いても「やはりあなたは攻撃性は本能だと言っているのではないのですか?」と言われるだろうか? しかしそうではないのだ。そこでこれまでの論旨を簡単にまとめよう。攻撃性は本能ではなく、いわば活動性や動きこそが本能である。人間は自分の動きにより世界に起きたある種の「効果」の大きさに興奮し、自らの能動性を自覚する。そしてその「効果」の大きさを最大限に提供してくれるのが、不幸なことに他者への侵害や、その苦痛なのである。加害行動はしかし現実の他者に向かうことへは強烈な抑止が働いている。私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時にはずれるのだろうか?
私はその状況を以下に4つ示してみる。

1.怨恨、復讐による場合
2.相手の痛みを感じることが出来ない場合。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合。
4.突然「キレる」場合。

1.怨恨、復讐による場合

特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為ですらあった。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人で当ても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものであるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはいかに筋違いで身勝手な考えに思えても、その人の暴力への抑止は外れてしまうのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それは顕著かもしれない。しかしそれ以外にも筋違いの、あるいは不可避的な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に虐待的な親子関係にあった人の場合、トラウマの連鎖が起きやすく、きょうだい間でのいじめ、学校でのいじめ、と引き続いていく可能性がある。その間等の親は子供が主観的に体験した虐待にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分は恵まれない、世界から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになった場合に生じるのは何か? 神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。

2.相手の痛みを感じることが出来ない場合

加害殺傷のファンタジーはすべての人が当たり前に持っているとすれば、それが行動に移されないのは加害行為に対する恐怖と罪悪感という強力なストッパーがかかっているからだ、と論じた。すると恐怖や罪悪感がそもそも希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか、という問題になる。あたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 活動性や動きにより「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮。それに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はない。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸にあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
「人を殺してみたかった」という犯罪者の言葉を、私はこれまでに二度聞いたと記憶している。一人は2000年の豊川事件。もう一人は昨年(2014)7月の佐世保での事件だったのだ。後者の事件の加害少女は、小学校のときに給食に農薬を混入させ、中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしている。さらには昨年の事件の前には父親を金属バットで殴り重傷を負わせている。そこにはそれらの行為による「効果」に興味を持ち、楽しんでいるというニュアンスが伺えるのである。
ではどのような場合にこの「人の痛みを感じられない」という問題が生じるのだろうか?
他人の感情を感じ取りにくい病理として、例えば自閉症やアスペルガー障害を考えることが出来よう。実際残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。ただしここで彼らのために一言述べておかなくてはならないのは、自閉症やアスペルガー障害を持つ人々が皆加害的な行動をとるかといえば、そんなことは決してないということだ。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍している。
ここで他者の感情を感じ取りにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点について強調しておきたい。世の中の「決まり」、つまり法律や規則や倫理則の中には、それを破ることが直接具体的な他者に痛みを与えないことも少なくないが、それでもそうすることへの抑制が通常はかかるのはなぜだろうか?もちろんそれが露見することによる処罰への恐れや羞恥心があるだろう。それ以外にも「決まり」を破るという考えを、彼らは生理的、感覚的に受け付けないのではないか? 私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れないという人もいる。彼らが特別倫理的な人間という印象もないが、その種の「決まり」を守らないことは「キモチわるく」、感覚的に耐えられないようだ。
しかし「決まり」を守る道徳性と「他人に苦痛や痛みを及ぼすこと」を抑止する道徳性は次元が異なるのである。前者による罪悪感や羞恥心や「キモチわるさ」は、いわば自分の側の不快や痛みである。他人の痛みを感じる力が希薄でも成立するのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人の痛みがそのまま問題となる。方向性としては全く逆なのである。ただしもちろん「人を害してはならない」は「決まり」でもある。他人の苦痛を感じにくい人でも、「決まり」を破るという意味で加害行為はそれなりに「キモチわる」くもあるだろう。しかし他人の痛みを感じることによる決定的な抑止を欠いている場合には、加害行為はゲーム感覚で、あたかも仮想上の敵に対する攻撃と同じレベルで生じてしまう可能性があるのだろう。
これまでは自閉症やアスペルガー症候群についてもっぱら論じたが、おそらくコアなサイコパス群がここに含まれる可能性があるだろう。彼らは言語的なコミュニケーション能力や社会性にある程度は優れ、2001年の池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも何度も結婚までし遂げている。なぜ他人の痛みがわからない人が社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。あるいは彼らの他人の痛みを感じる能力には、「オン、オフ」があるのかもしれない。この件に関する詳細は不明である。