2015年5月17日日曜日

精神医学からみた暴力(再推敲後)1

暴力や攻撃性は本能なのか?

暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならない。地球上のあちらこちらで不幸な殺戮が繰り返されている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ頻発している。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本では殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の遺骨を見る限り、その男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという(ハリス、1997)。国家の統治機構が備わり、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、その例の枚挙にいとまはない。)加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?

マーヴィン・ハリス著:ヒトはなぜヒトをたべたか、早川書房、1997

私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性すら見出される場合が多いであろう。しかし暴力は時には正当防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されずに暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちは心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」と私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問も抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
本稿は暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。私は精神科医であるから、その視点や方向性も「精神医学的」となる。暴力への理解はいまだに錯綜し、未整理のままに多くの理論が提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。そこで私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというものである。この点について、以下にまず示したい。

すべての源泉としての「活動性と動き」

暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であるが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。むしろ攻撃本能がたとえあったとしても、幼児期に見られる攻撃性や暴力は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、ということを示したいが、それは精神分析ではウィニコットの立場に近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性activityと動きmotility であるという(Abram, 2007)。

Jan Abram (2007) The Language of Winnicott: A Dictionary of Winnicott's Use of WordsKarnac Books.

子供が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば目の前の物が動き、母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきである。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばホワイト(1959)の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出スことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。

Robert White (1959Motivation reconsidered: The concept of competence. Psychological Review, 66:297-333.


以前プレイセラピーをしていた時のである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私は悲鳴を上げる。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。

私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? おそらくそう言えないこともないだろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのである。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、おそらくそれとほぼ同時期に起きるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がAをして世界にBという「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。ウィニコットがその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

動きと攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の怒りや悲しみなどの苦痛なのである。
 プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその効果を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げ数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ興奮も大きいだろう。もし自分が少し動かしただけで、ガラス細工の工芸品がガシャーンと音を立てて粉々に崩れたら?きっとその効果ははるかに大きいはずである。(ただし子供がその刺激の大きさに恐怖を感じなければ、であるが。)そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその変化に一番反応するのは、実は人の感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「世界の変化」の証拠になる。それが同一化や投影の機制を通じて人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし何といっても最大の「効果」は、他人を攻撃し破壊することに伴うものである。人はもがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。

 もちろん現実の他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、それよりもはるかに原初的な心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類研究者も伝えている (山極、2007) 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、本能の一部に組み込まれている。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の延長として体験されているのではないか?そして相手への加害行為は、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
山極寿一(2007) 暴力はどこからきたのか NHKBooks

 その結果最大の「効果」の源としての加害行為は、それが想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。想像上の、あるいはゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに「効果」を与え、私たちの精神生活に切っても切れないほどの影響を与えているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ず殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「●●殺人事件」というタイトルの代わりに、「●●打撲事件」「●●全治一か月事件」などと題された本を想像してみよ。人は店頭で本を手に取ることすらしないだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを考えればよい。殆んどのファイティングゲームで敵を倒したり、ダメージを与える様なシーンが登場するだろう。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることが不可欠かを示している。
 私は今でも時々、7年前に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが.犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを抑えているのは、現実検討であり、それが実害をともなわないという認定なのである。