2015年5月16日土曜日

精神医学からみた暴力(推敲後)7

さて以上は原田先生の本の治療の項目を紹介した形になるが、そこで肝となる部分について述べたい。それは、上述のセントラルエイトのうちの①反社会的認知ではないかと思う。そしてそこに対して認知行動療法を行うことには明らかな効果があり、再犯防止につながると言っているわけだ。これは確かに新鮮な提言であり、「サイコパスには治療は無理!」という私たち臨床家が慣れ親しんだペシミズムにも反する。もちろん彼らに対して根本的な治療を行うことにはたくさんの困難が伴い、ましてやまっとうな人間に生まれ変わらせることは不可能であることは変わらない。「育て直し」などは本来不可能なのである。その意味では治療の貢献は目覚ましいものではなく、再犯をする可能性がたとえば6割から4割に減る、という程度のものかもしれない。しかしそれならそれ以外の精神疾患、うつとかボーダーラインとか解離性障害がそれに比べてはるかに治療効果が上がっているかと言えば、そういうわけではない。「サイコパスは救いようがない」は、実は私たちが持っている偏見かもしれないのだ。原田先生はこのことを、あの宅間守(2001年の池田小児童殺傷事件の犯人で、法廷でさえ遺族の気持ちを逆なでする暴言を繰り返したことで知られる)でさえ反省の気持ちを表現するようになったという例を引いて説明している。
もう少し説明しよう。この①とは、たとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「あいつをポアするのは人類を救済するためだ」というような思考であり、それに従うことで、抑止が外れてしまうという事実だ。②は私のこれまでの議論では自己愛憤怒にあたるものであり、「自分は恥を雪がなくてはならない」と、松の廊下で相手を斬りつけたり、居酒屋で隣のグループの一人が「馬鹿じゃないの」と言ったことを、自分のことだと捉えて、ナイフでその人を刺し殺してしまったりするという例(それを原田先生は、「馬鹿じゃないの殺人」と命名なさっている)が挙げられる。
ただし私にとって今一つ不明なのは、私がこれまで述べた4タイプのどの治療について当てはまるのか、という問題である。考えてみれば、認知のゆがみということなら、どれにもあてはめられそうだ。1~4のいずれも、それなりの認知やロジックを伴って人を殺傷するだろう。1.なら「俺は奴らの犠牲者だ。」2.なら「こいつも牛や豚と同じ動物じゃないか!」とか? 3.・・・・、これは違うか。快感になってしまっているからね。認知とは違うだろう。4.これは突然①、とか2が生じると考えるべきだろうか?

<まとめ>
そろそろまとめに入ろう。私は現実の攻撃に対する抑止が外れる状況を4つ示した。
1. 怨恨による、あるいは仕返しによる場合。2.相手の痛みを感じることが出来ない場合。3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合。4.突然「キレる」場合。
 1.は認知療法、ないしは支持的な精神療法、2.は器質的な問題を除いては認知療法。3.は薬物療法、4.も薬物療法か。薬物療法のみに頼らざるを得ない場合にはそこにその人の器質的な要因を読み込むことになる。すでに述べた
内側前頭皮質と側頭極の灰白質が少ないという所見である。それ以外は124において生じている可能性のあるさまざまな「反社会的認知」にできるだけ対処していくしかないだろう。しかしそれでも彼らに対してなすべきことには限界がある。おそらく14の全てを兼ね備えてしまった人間に対して私たちが出来ることは限られているのである。そのような人を想像してみよう。そこで想像できる最悪の男性像は目も当てられない。まず発達障害としてアスペルガー障害を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまった場合などうだろうか。まさに才能と権力と冷血さを備えたモンスターが出来上がるわけだが、歴史とはこの種の人間により支配されていたという部分が多いのではないか。ヒトラーは、信長はどこまで重なっていたのだろうか? いずれにせよ私は再びいつもの嘆息を漏らすしかない。「男は本当にどうしようもない・・・・・」
<補遺>
最後に付け加えたいテーマがある。加害的なゲームを繰り返すことは、実際の加害行為につながるのか?たとえばシューティングゲームばかりやっていると、人殺しをする人間が育ってしまうのか? よく問われる問いである。私のとりあえずの答えはノーということになるだろう。これまでの論旨を繰り返そう。加害殺傷のファンタジーはすべての人が持っている。それ自体は反社会的ですらない。それが行動に移されないのは加害行為に対する恐怖と罪悪感という強力なストッパーがかかっているからだ・・・・、と議論が進んできた。もちろんファンタジーで攻撃的であることと現実とは全くの別物である。もしそうでなかったらどうなるだろうか?ボウリングのチャンピオンは、信号待ちをしている人たちを見たら本能的に手に持っていたものを転がして、なぎ倒したくなるのだろうか? 空手道場の猛者たちはみな暴力集団になってしまうのだろうか? 合気道の高段者は気が付いたらベッドで恋人をねじ伏せてしまうのだろうか?将棋の棋士は、夫婦げんかになるとやたらと書斎に家具で矢倉を組んて長期戦に持ち込んだり、ライバルの部署のトップを「大手、大手」とつぶやきながら執拗に追い回したりするのだろうか? そんなことはないだろう。
というのは私の下手なギャグだが、半ば本気である。ところが最近読んだ岡田尊司先生の本(インターネット・ゲーム依存症、文春新書、2014)を読むとたちまち反撃されそうなことが書いてある。
少し長いが、引用だ。

1991年、アメリカのフロリダ州で、十代の二人の少年が、少女を廃屋に連れ込んでレイプしたうえ殺害し、火をつけて燃やすという事件を起こした。二人の少年は、全く同じ設定のゲームに熱中していた。ゲーム内の展開をそのまま実行してしまったと考えられる。
 1999年に、コロラド州で起きたコロンバイン高校銃乱射事件では、二人の少年がのめりこんでいたゲームさながらに獲物を追い詰め、情け容赦なく命を奪っていった。
1997年にケンタッキー州のヒース高校で発生した礼拝堂銃乱射事件では、もっと奇妙なことが起きていた。加害者の少年は、その日初めて本物の拳銃を握ったにもかかわらず、発砲した銃弾すべてを被害者に命中させ、しかも、被害者は一発ずつ被弾していた。さらに現場の状況を解析すると、加害者の少年は、同じ位置から一歩も動かずに、銃の方向だけを変えて発砲を続けていた(同書、P84)
まあこんなこともあるだろう。しかしやはり少数派と言いたい。99.9パーセントの人は虚構と現実を峻別する。結局私は前言を撤回するのか、と問われれば、やはりしないだろう。というよりは、この議論はやはり正解はないとしか言いようがないのではないか?ちょうど実践から手を標榜する道場には、それでますます喧嘩の腕を上げてしまうような不良も交じっているであろう。その人にとっては空手は凶器になるといっていい。大量殺戮のファンタジーを抱いている人が、あたかもビデオゲームで磨いた技を用いるかのように実弾を乱射することもあるだろう。でもだからと言って通常の人間に備わっている抑止力を軽視するわけにはいかないということだろうか?
ただしここで一つ重要な点を付け加えておきたい。テレビゲームが依存症になった場合、おそらく例外が起きる。先ほどの岡田先生の本がそれを伝えているのだが、ゲーム異存は脳の配線を犯す。そうなるとおそらく共感性や思いやりの能力さえ阻害されることになり、まさに二次的に「他者の痛みを感じない」人間が出来ることになりかねない。ここがポイントだな。