動きと攻撃性、そしてそれに対する抑止
ここで一番誤解を招きやすい説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の変化である。プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその効果を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げ数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ興奮も大きいだろう。もし自分が少し動かしただけで、ガラス細工の工芸品がガシャーンと音を立てて粉々に崩れたら?きっとその効果ははるかに大きいはずである。しかしそれよりも子供がその変化に一番反応するのは、実は人の感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴もそれに加えていいかもしれない。子供が親に同一化し、その感情や快不快をモニターできるようになれば、実はそれこそが自らの動きが最も大きな効果を及ぼすものの一つとなるはずだ。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「世界の変化」の証拠になる。それが人の心に起こることを想像するだけでいい。
私たちはしばしばこのような「効果」を人の心に起こして、それに興奮したり楽しんだりする。よく実行するのは他人を喜ばせたり、驚かせたりするという行為である。他人に贈りものをしたり、サプライズバーティを仕かけるなどのことは日常的に行なわれる。それにより他者が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。
では他人に苦痛を与えたりする場合には話は一気に複雑になるし、ここからの話が攻撃性の問題に直接かかわってくる。他人を破壊する、攻撃するということが世界に対する「効果」を最大限に生じさせることは論を待たない。自分が精神的身体的に侵襲され、破壊されることの苦痛を知らない人はいない。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。ところがもちろんそこには強烈な抑制がかかる。それが罪悪感で恐怖である。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、もう一歩深い心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会でも、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類研究者の山極も伝えている。(学長さんだからねえ。) (山極寿一;暴力はどこからきたのか NHKBooks, 2007) 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、それこそ裸出歯ネズミが道で「格上」に出会った時に道を譲るなどの行動にも見られる。そこでは相手の痛みを取り入れ、自分の痛みを相手に投影するという機序が生じていると考えられるが、それはおそらく動物レベルで生じる、それこそ本能に近い機制と考えられる。そして同種の間における加害行為は、一種の恐怖心さえ生じさせる形で回避されるのである。
その結果最大の「効果」の源としての加害行為は、それが想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。想像上の、あるいはゲームの世界で、殺戮が、攻撃がいかに「効果」を与えて、おそらく私たちの生活に切っても切れないほどの影響を与えているかを考えよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ず殺人がテーマになる。そう、人は殺されないと迫力がない。「●●殺人事件」というタイトルの代わりに、「●●打撲事件」「●●全治一か月事件」などを考えてみよ。全く迫力に欠けるではないか。
私たちはしばしばこのような「効果」を人の心に起こして、それに興奮したり楽しんだりする。よく実行するのは他人を喜ばせたり、驚かせたりするという行為である。他人に贈りものをしたり、サプライズバーティを仕かけるなどのことは日常的に行なわれる。それにより他者が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。
では他人に苦痛を与えたりする場合には話は一気に複雑になるし、ここからの話が攻撃性の問題に直接かかわってくる。他人を破壊する、攻撃するということが世界に対する「効果」を最大限に生じさせることは論を待たない。自分が精神的身体的に侵襲され、破壊されることの苦痛を知らない人はいない。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。ところがもちろんそこには強烈な抑制がかかる。それが罪悪感で恐怖である。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、もう一歩深い心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会でも、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類研究者の山極も伝えている。(学長さんだからねえ。) (山極寿一;暴力はどこからきたのか NHKBooks, 2007) 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、それこそ裸出歯ネズミが道で「格上」に出会った時に道を譲るなどの行動にも見られる。そこでは相手の痛みを取り入れ、自分の痛みを相手に投影するという機序が生じていると考えられるが、それはおそらく動物レベルで生じる、それこそ本能に近い機制と考えられる。そして同種の間における加害行為は、一種の恐怖心さえ生じさせる形で回避されるのである。
その結果最大の「効果」の源としての加害行為は、それが想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。想像上の、あるいはゲームの世界で、殺戮が、攻撃がいかに「効果」を与えて、おそらく私たちの生活に切っても切れないほどの影響を与えているかを考えよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ず殺人がテーマになる。そう、人は殺されないと迫力がない。「●●殺人事件」というタイトルの代わりに、「●●打撲事件」「●●全治一か月事件」などを考えてみよ。全く迫力に欠けるではないか。
あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、アマチュア棋士たちにとつて,恐らく無上の快感を与えるにちかいない。そこに相手の直接の苦痛が及ばなかったり、それが十分に正当化し得る場合にはそうであろう。あるいはビデオゲームを考えればよい。殆んどのファイティングゲームで敵を倒したり、ダメージを与える様なシーンか登場するだろう。この様な例を与えることは、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることが好きかを示している。
私は7年前に起きた秋葉原連続殺傷事件が報道された翌日のことを思い出す。その日の外来では患者さんたちとその話題になることが多かったが、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが.犯人の気持ちがわかる」というものであった。(ちなみに彼らは特別暴力的な傾向を持つことのない、抑うつや不安に悩まされている人々である。それだけに私には彼らの反応が意外だったわけである。) 私はこの時は非常に驚いたが、よく考えれば合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や、書物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを抑えているのは、現実検討であり、それが実害をともなわないという認定なのである。
私は7年前に起きた秋葉原連続殺傷事件が報道された翌日のことを思い出す。その日の外来では患者さんたちとその話題になることが多かったが、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが.犯人の気持ちがわかる」というものであった。(ちなみに彼らは特別暴力的な傾向を持つことのない、抑うつや不安に悩まされている人々である。それだけに私には彼らの反応が意外だったわけである。) 私はこの時は非常に驚いたが、よく考えれば合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や、書物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを抑えているのは、現実検討であり、それが実害をともなわないという認定なのである。