2015年5月12日火曜日

精神医学からみた暴力(推敲後)3


攻撃性への抑止が外れるとき

ここまで書いても「やはりあなたは攻撃性は本能だと言っているのではないのですか?」と言われるだろうか? しかしそうではないのだ。そこでこれまでの論旨を簡単にまとめよう。(とか言って、自分の考えをまとめているだけだが。)攻撃性は本能ではなく、いわば活動性や動きこそが本能である。人間は自分の動きにより世界に起きたある種の「効果」の大きさに興奮する。そこに自分の能動性を感じるのだが、その効果の大きさとしては、他人の感情が素材として選ばれやすい。そしてそれは喜びでも驚きでも悲しみでも苦痛でも構わないのだが、不幸なことに、苦痛が一番大きな効果の役割を果たすことが多いのだ。だからファンタジーやゲームや小説の中ではしばしば取り上げられる。加害行動はしかし現実の他者に向かうことへは強烈な抑止が働いている。私たちがニュースなどで目にして戦慄するのは、その抑止が外れた結果なのだ。

では攻撃性の抑止がどのような時にはずれるのだろうか?これは日常生活ではいくらでも数え上げることが出来る。
 たとえば猪が畑を荒らす地方では、地元の猟師は「害獣」である猪を「殺害」することに罪悪感がほとんどないだろう。殺害が「駆除」となると抑止は外れるのだ。部屋の中に迷い込んで自分を悩ませ続けた蚊をピシャリとやった時の心地よさ。あなたが反社会的な、残忍な性格である必要は少しもないのである。
 あるいは食用として動物を「殺害」する場合。「●●家」の牛丼を食べるたびに、犠牲となった牛を悼み、黙禱をささげる人など皆無だろう。
 ゲームないしは試合において発揮される暴力。ボクサーなら、相手を「意識を失うほど殴りつける」ことの快感が忘れられないのではないか。そして彼はサイコパスである必要はない。 

このように考えると、攻撃性はそれが道徳的、倫理的、法的に正当化されるときには、人は喜んでそれを発揮される、ということになりはしないか?これは考えてみれば恐ろしいことである。私たちはそれが正当化され、許されることならいくらでも暴力的になりうる? 
先日テレビで、お金を払っていくらでもお皿を割っていいというサービスを紹介していた。ゴーグルをつけてかけらが目に入らないようにして、遮蔽された空間で用意されている沢山のお皿を思いっきり目の前の障害物に叩きつける。「○○め、よくも××したな!」と叫びながら、バリン、バリンとやっていくのだが、結構楽しそうだ。これは物が対象だが、人の顔がかかれたサンドバックだって同じだろう。
 脱線ついでだが、最近テレビで、都市型のサバイバルゲームがはやっている。「ウィキ」すると「サバイバルゲーム(Survival Game/Airsoft)とは、主にエアソフトガンBBを使って行う、概ね20世紀以降の銃器を用いた戦闘を模す日本発祥の遊び、あるいは競技。」えー、日本が発祥なの?「敵味方に分かれてお互いを撃ち合い、弾に当たったら失格となるのが基本的なルールとなる。ペイントボールが圧搾空気の力で発射される塗料入りの弾を用いるのに対し、サバイバルゲームはBB弾を発射するエアソフトガンを使用するため、「競技者の失格が自己申告制」「主に実銃を模した用具が使用される」という違いがある。
統一されたルールは存在せず、グループや大会ごとにルールは異なる。サバイバルゲームにおけるルールは一般的にレギュレーションと呼ばれるので、以降の表記は「レギュレーション」に統一する。」
都会でたとえば廃屋になったビルの一部を借りて行ったりする。若者が数人ずつに分かれて、武装して戦い合う。面白いだろうなあ。人を殺傷する実弾の代わりにゴム製の弾に変わっただけで、「殺し」はこれほど面白くなってしまうのだ。まあ、それはいいとして・・・・。

抑止が外れる状況を4つ示してみる。

1.怨恨による、あるいは仕返しによる場合。
2.相手の痛みを感じることが出来ない場合。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合。

4.突然「キレる」場合。