2015年5月10日日曜日

精神医学からみた暴力(推敲後)1


暴力や攻撃性は本能なのか?

暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならないようだ。地球上ではあちこちで不幸な殺戮が行われている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ頻発している。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本では殺傷事件が毎日のようにニュースをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の男性を見る限り、その多くが殺害により世を去っていたということである。(「ヒトはなぜヒトをたべたか」(マーヴィン・ハリス、早川ノンフィクション文庫)。国家の統治機構が備わり、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非・民主主義体制では国家による人民の殺害はより一層深刻だろう。現代社会においてすら、その例の枚挙にいとまはない。)加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」というような主張と思われかねない。ただし私自身は暴力や攻撃性は、人間の本能と考える必然性はないという立場である。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感や達成感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。でもそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。例えば私たちの多くは飲酒を好むし、一昔前なら、成人男性の大半はタバコを吸っていた。しかし飲酒、喫煙は「人間の本能」かといえば、もちろんそうではない。人の報酬系はそれらの物質を摂取することにより興奮するという性質があるために、それらの行動を断ち切ることが難しいという事実が示されているにすぎない。本能ではない暴力も、いくつかの条件が重なることでそれが人に快感を覚えさせる。
このうち他者からの攻撃を受けた際に発揮される言葉や身体的な暴力は、その仕組みが見えやすく、納得もしやすい。おそらくこれは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性すら見出される場合が多いであろう。しかし暴力は時には正当防衛を超えて過剰に発揮されるし、時には触発されることのない暴力も見られる。私たちの心を痛めるのは、この過剰な、あるいは刺激されることのない自発的な暴力的行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「暴力的な犯罪の再発を防ぐにはどうしたらいいのだろうか」と私たちは心を悩ます。
本稿は暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。暴力の理解は錯綜し、多くの議論が未整理のまま提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。暴力を一時的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというのが私の本校における提案である。私は臨床医なので、そのことを精神医学的、脳科学的な知見(と言っても私自身のそれは全く大したものではないが)から見直してみたい。

すべての源泉としての「動きmotility

暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを生業とする精神分析の世界でさえ見解が分かれている(林直樹先生の論文引用しちゃおう?)。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。私の立場は暴力に本能を見出す根拠はないということであるが、実は「存在しない」ということの証明は難しい。そうではなく、攻撃本能がたとえあったとしても、子供にその原型が見られるような暴力行為は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、というのが主張なのだ。そしてそれは精神分析ではウィニコットの立場に近い。私が彼の理論を援用するというのではなく、彼の理論が最もしっくりくる形で私の主張を代弁してくれると感じる。ウィニコットは攻撃性の由来は、子宮の中では活動性activityと動きmotility であるというJan Abram The Language of Winnicott: A Dictionary of Winnicott's Use of Words Karnac Books, 2007
子供が体を動かし、それが周囲を変える。それが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による反応としての活動ではないことに注目するべきであろう。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばホワイトの言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動の結果として環境に効果を生み出したり、刺激面に変化をもたらしたいという傾向があるとたのである。

昔プレイセラピーをしていたときである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私が嘆く。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。
私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?おそらくそういえないこともない。彼は私を攻撃したかったのだろうか? そういうニュアンスもあるだろう。でも積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れるのはそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しい。それは自分の体の動きや発声が世界を動かし、コントロールすることの学習のプロセスであり、それ自体が報酬系に作用してその習得を動機付けられる。自らの能動性の確立である。そしてそれは子供の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、おそらくそれとほぼ同時期に起きるシナプスの剪定 pruning とを促進する。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がAをして世界にBという「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。そして子供は嬉々としてそれに取り組むのである。ウィ二コットがその動きmotility の概念を提示した時、まさにそれを論じていたはずだと私は思う。