2015年5月3日日曜日

精神医学からみた暴力 (9)


本題に戻る。他者の痛みを感じない場合について論じていたのだ。ここでおそらく専門家、非専門家を含めて疑問を抱く点は次のようなものだ。
痛みを感じない例として、例えば自閉症やアスペルガー障害を考えよう。彼らが皆加害的な行動をとるかといえば、そんなことは決してない。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、研究者や大学教授となって活躍している人もたくさんいるではないか? なぜだろう?これについては私はいくつかの考えがある。一つは超自我の形成には、他者の痛みを感じるという能力を必ずしも含まないという部分があるということだ。例えば私はよく赤信号を無視して横断歩道を渡るが、そのことを考えよう。車は全然来ないのに、信号は赤、という状況はいくらでもある。私は結構信号無視をして渡る(時には自分を叱咤してわたる。いい子はまねしないでね。)ことが多いが、その際おとなしく待っている人たちからの冷たい視線を感じることも多い。一度は見知らぬおじさん(一見浮浪者風)に「駄目だよ!」と怒鳴られたこともあるが、まあそれはいいとして、信号無視をすること自体は、具体的に誰かを傷つけることにはならない。それでも多くの人が大人しく信号待ちをするのはなぜだろうか? 冷たい目で見られるのが嫌だ、というのもあるだろう。禁止されていることをしてしまうことへの後ろめたさもあろう。注意すべきなのは、他者の痛みを感じない人でも、自分の痛みは人一倍感じるのが普通だということである。すると信号無視よりはるかに「してはいけないこと」として刷り込まれている加害行為は、当然抑制される。
 ただし私は「してはいけないことをしない」ことの道徳性と、「他人に苦痛や痛みを及ぼすことをしない」ことの道徳性は全く別物と思っている。前者の意味ではあまり道徳人とは言えない人が、後者の意味では完璧であったり、またその逆であったりする。前者は痛みが最終的に自分に及ぼされることであり、後者は他人に痛みが及ぶ。ある禁制を犯すことが最終的に自分のふがいなさ、罪深さ、羞恥から来る痛みを伴う場合にそれをしないという能力は、他人の痛みを感じる力が希薄でも保たれるのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人が痛みを体験することが問題となる。方向性としては全く逆だ。そして後者の能力が著しく欠けている場合は、加害行為は、それが恨みその他により正当化され、また人知れず行われる場合には、あるいはその後自害する覚悟がある場合には、意外にあっけなく生じてしまう可能性があるのである。