2015年5月2日土曜日

精神医学からみた暴力 (8)


ちなみに書いてみたかったテーマ。シューティングゲームばかりやっていると、人殺しをする人間が育ってしまうのか? 答えはノーということになるだろう。これまでの論旨、すなわち
加害殺傷のファンタジーはすべての人が持っている。それ自体は反社会的ですらない。それが行動に移されないのは加害行為に対する恐怖と罪悪感という強力なストッパーがかかっているからだ・・・・、と議論が進んできた。
そんなことを言っていたらボウリングのチャンピオンは、信号待ちをしている人たちを見たら本能的に手に持っていたものを転がして、なぎ倒したくなるのだろうか? 空手道場の猛者たちはみな暴力集団になってしまうのだろうか? 合気道の高段者は気が付いたらベッドで恋人をねじ伏せてしまうのだろうか?将棋の棋士は、夫婦げんかになるとやたらと書斎に家具で矢倉を組んて長期戦に持ち込んだり、ライバルの部署のトップを「大手、大手」とつぶやきながら執拗に追い回したりするのだろうか? そんなことはないだろう。
というのは私の下手なギャグだが、半ば本気である。ところが最近読んだ岡田尊司先生の本(インターネット・ゲーム依存症、文春新書、2014)を読むとたちまち反撃されそうなことが書いてある。
少し長いが、引用だ。

1991年、アメリカのフロリダ州で、十代の二人の少年が、少女を廃屋に連れ込んでレイプしたうえ殺害し、火をつけて燃やすという事件を起こした。二人の少年は、全く同じ設定のゲームに熱中していた。ゲーム内の展開をそのまま実行してしまったと考えられる。
 1999年に、コロラド州で起きたコロンバイン高校銃乱射事件では、二人の少年がのめりこんでいたゲームさながらに獲物を追い詰め、情け容赦なく命を奪っていった。
1997年にケンタッキー州のヒース高校で発生した礼拝堂銃乱射事件では、もっと奇妙なことが起きていた。加害者の少年は、その日初めて本物の拳銃を握ったにもかかわらず、発砲した銃弾すべてを被害者に命中させ、しかも、被害者は一発ずつ被弾していた。さらに現場の状況を解析すると、加害者の少年は、同じ位置から一歩も動かずに、銃の方向だけを変えて発砲を続けていた(同書、P84)
まあこんなこともあるだろう。しかしやはり少数派と言いたい。99.9パーセントの人は虚構と現実を峻別する。結局私は前言を撤回するのか、と問われれば、やはりしないだろう。というよりは、この議論はやはり正解はないとしか言いようがないのではないか?ちょうど実践から手を標榜する道場には、それでますます喧嘩の腕を上げてしまうような不良も交じっているであろう。その人にとっては空手は凶器になるといっていい。大量殺戮のファンタジーを抱いている人が、あたかもビデオゲームで磨いた技を用いるかのように実弾を乱射することもあるだろう。でもだからと言って通常の人間に備わっている抑止力を軽視するわけにはいかないということだろうか?
ただしここで一つ重要な点を付け加えておきたい。テレビゲームが依存症になった場合、おそらく例外が起きる。先ほどの岡田先生の本がそれを伝えているのだが、ゲーム異存は脳の配線を犯す。そうなるとおそらく共感性や思いやりの能力さえ阻害されることになり、まさに二次的に「他者の痛みを感じない」人間が出来ることになりかねない。ここがポイントだな。