2015年5月1日金曜日

精神医学からみた暴力 (7)



他者の痛みを感じない場合

実は私はこれを一番言いたかったのだ。世間をにぎわす暴行、殺傷事件の一部にはこれがある。加害殺傷のファンタジーはすべての人が持っている。それ自体は反社会的ですらない。それが行動に移されないのは加害行為に対する恐怖と罪悪感という強力なストッパーがかかっているからだ・・・・、と議論が進んできた。すると恐怖や罪悪感が欠如している場合にはどうなるか、という問題になる。するとあたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになる。注目していただきたいのは、ここには「攻撃性」という項目を挿入する必要すらないということだ。動きにより「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮。それに罪悪感の欠如が加われば、実際の殺害が生じるのだ。当人に罪悪感が芽生えないのは、「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
「人を殺してみたかった」とは、これまでに私は二度聞いたと記憶している。一人は2000年の豊川事件。もう一つは最近聞いた気がする。ということでネットで調べると、これ以上にないという記事が出てきたので、引用する。最近、とは昨年の佐世保での事件だったのだ。



「人を殺してみたかった」少年を取材した者として、いま考えていること
藤井誠二 20140801

 事件の一報を聞き、加害女子生徒の「人を殺してみたかった」という「動機」を耳にしたとき、とっさに2000年に愛知県豊川市で起きた男子高校生による老女殺人事件を思い出した。その加害少年も動機を「人を殺してみたかった」と捜査員に語ったのだった。 
 私は当時、家裁で審判を受け実相が封じこめられてしまう状況にあったこの事件をなんとかして掘り起こしたい、という思いで取材を続けていた。私は加害少年の膨大な「供述」を取材することに成功して、それを『人を殺してみたかった──愛知県豊川市主婦殺人事件』というノンフィクション作品(単行本)として約一年後に上梓した。のちに同タイトルで、さらに内部資料をふんだんに使い、かなり長い「文庫版あとがき」を加え文庫化した。いま、版元の双葉社は大急ぎで増刷している真っ最中である。佐世保事件のヒントになるような「事実」が詰まっているのではないかと著者として思う。一人でも多くの方に読んでほしい。 
 佐世保事件の加害少女の「人を殺してみたかった」という供述のあとに次々に報道される彼女の「言葉」や彼女の態度は、気味が悪いぐらいにすべて私が予想したものとそっくりだった。それは豊川事件の加害少年の語った言葉と瓜二つだったからである。正直、ゾッとした。
 
 佐世保事件の加害少女は「人を殺してみたかった」という供述の他にも、「人を解剖をしてみたかった」、「人を殺したいという欲求が中学生の頃からあった」等と供述していると伝えられ、反省の色は見られないという。
 豊川事件の加害少年が、殺人を犯したあとに逃走したが、疲労困憊し名古屋駅前の派出所に出頭した。その後に豊川署に移送されるとき、警察車両の中で顔を隠さず、堂々と正面を見据えていた。悪びれた態度はなく、反省の言葉もなかった。
 なぜ加害少年が通っていた高校近くに住む老女を狙ったのかと捜査員から問われると、「どうせ殺すなら、将来の時間のある若い人よりも、将来の時間の短い老人がいいと思い、老人が住んでいそうな家や表札を見て選んだ」という主旨のことを話した。
 
 豊川の加害少年は、凶器として金槌を用意していた。彼は金槌で殴り、人が死んでいく過程を見たかったのだった。しかし抵抗されたこともあり、思い通りにはいかなかった。彼は押し入った家の台所から包丁を取り、それで老女の頸部を何度も突き刺し絶命させた。彼は老女がもがき苦しみながら絶命していく様を観察していたのだった。他にも凶器として草刈り鎌も用意して学校近くの草むらに隠していたが、それは草むらの所有者に見つかり移動させられていた。 
 今回、佐世保の加害少女が鋸やハンマーなど数種類の凶器を準備し、首と左手首を切断したり、胴体も複数回にわたって刺したことを考えると、彼女はおそらく、「この凶器を使えば人間はこうなる」とか、「こう解体できる」という「実験」を企てていたのだろうと私は思う。もし相手を殺害することだけが目的なら、複数の凶器を用意する必要はないからだ。  
 豊川事件の加害少年も中学生の頃から人を殺してみたいという願望があり、いつか実行したいと考えていたと供述していた。しかし、犯行を実行するまではそれに至る予兆のような行動は皆無だった。友人付き合いもあり、成績も優秀だった。
 一方、佐世保事件の加害少女は小学校のときに給食に農薬を混入するという事件を起こしている。教育委員会はカウンセラーを派遣したというが、そのときにどのような手当てがなされたのか、専門家に相談はしたのかなど、当時の大人たちの対応も検証をされなければならないだろう。  
 中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしているが、教育委員会は把握していないという。そして今年の二月以降、父親を金属バットで殴る事件を起こしている。母親との死別、父親の再婚というおそらくはつらい環境の変化が背景にあったと思われるが、これも教育委員会は把握していないという。父親殴打の件は弁護士である父親が公にしなかった可能性が高い。猫などの小動物を虐待して殺すというのは、特異で異常なパーソナリティを示す重大な情報である。それを見過ごしたか、看過してしまったのかはわからないが、周囲の大人たちの「危機感」はどれほどのものだったのか。
 人の死に強いこだわりを持ち、人を殺すということに善悪の価値を持てず、それを抱えたままのパーソナリティの子どもはおそらく何万人に一人の割合でいる。そうした子どもたちは前兆行動を起こしてしまうこともあれば、まったく何の予兆すらないこともあるが、佐世保事件のケースは予兆をかなりはやい段階が発していた。
 
 そのときどきに適切な対処をしていれば、今回の悲惨な結果にはつながらなかったのではないかと私は残念でならない。保護者や大人が特異なパーソナリティに気付き、専門家の協力を得てコミニケーションの「育て直し」や「矯正」をおこなっていけば、彼や彼女たちは通常の社会のコミニケーションの中で生きることができるようになるはずだ。 
 佐世保では10年前にも小学生の女子が同級生を残忍な方法で殺害したという事件が起きている。それとの連続性を云々するメディアが目立つが勘違いも甚だしい。また、その事件を機に長崎では教育界をあげて「命の教育」をおこなってきたという。私はその内容を知らないが、それ自体は悪いことではないと思う。しかし、そういったメッセージとはあらかじめ「切断」されているパーソナリティの子どもがいることを認識すべきなのだ。 
 そういう認識の上に立って、きめの細かい、一人ひとりに即した「命の教育」、いや「命の大切さ」を共有できるようなコミュニケーションの中に取り込めるような取り組みが必要だった。そのためには、保護者や教員はもちろん、子どもたちを取り巻く子どもたちのきめの細かい観察と注意が不可欠だ。それが『人を殺してみたかった』を書いた私の一つの結論だった。(二〇一四.七.三〇 記)(下線岡野)


ウーン、さすがは非専門家、という印象を免れない。もちろん情報としてはこれほど貴重なものはない。下線を引いた部分が問題だ。残念ながら「適切な対処」は考えられない。「人の痛みを感じられない」は、その人の脳が抱えた欠損であり、それを埋め合わせることは出来ないのだ。問題はそのような問題を抱えている人から社会をいかに守るか、というその一点に絞られる。