2015年5月25日月曜日

「大文字の解離」理論 (4)


橋下さんの会見の感想。大阪都構想が頓挫して、彼はどうして笑っていられるのだろうか?強がり、だろうか?半分はそうだとしても、半分は違うだろう。それは彼の心の中で敗北することが想定されていたからだ。受け入れていたのである。恐らくそれは、「政治家なんかやらなくてもオレは食っていけるんだ!」ということなのかもしれない。他のこれと言って芸のない政治家にはできないことだ。あの姿は覚悟や受け入れについて考えるうえで参考になる。「間違ってたんでしょうね」と言えること。ただし正しい、間違い、という問題ではないと思うが。


攻撃者との同一化について

攻撃者との同一化という防衛機制は、通常はアンナ・フロイトが提出したと考えられている。彼女の「自我と防衛機制」に防衛の一つとして記載されているからだ。(Freud, Anna (1936) The Ego and the Mechanisms of Defense, International Universities Press.) 
ところがフェレンツィの元の意味は、これとは随分違うという議論がある。フランケルという人の論文だ。(Jay Frankel (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
彼の議論に従ってみよう。アンナ・フロイトの本には防衛機制として出てくる。その定義としては次の様に書かれている。「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。“by impersonating the aggressor, assuming his attributes or imitating his aggression, the child transforms himself from the person threatened into the person who makes the threat” (p. 113).
しかしこれはかなり誤解を招くし、そもそもフェレンツィの考えとは大きく異なったものだというのが、フランクルの主張であり、私もそう思う。なぜならフェレンツィは、子供が攻撃者になり替わる、とは言っていない。彼が描いているのは一瞬にして自動的に起きる服従なのである。「言葉の混乱」を少し追ってみよう。

「[暴行を受けた子供の]最初の衝動は、拒絶、憎しみ、嫌悪、そして力による抵抗であろう。『いやだいやだ、こんなのいやだ、強過ぎて痛い!あっちに行って!』である。極度の恐れにより麻痺させられるのでなければ、これかそれに似たものが直接の反応であろう。子供は身体的に精神的にどうすることもできず helpless 、彼らがたとえ思考によってでも抵抗するにはあまりに彼らのパーソナリティは不十分にしか固まっていない。Their personality is still too insufficiently consolidated for them to be able to protest even if only in thought. 「大人の圧倒的な力と権威により彼らは黙らされる。しばしば彼らは感覚を奪われるのだ。しかしその恐怖そのものは、それが頂点に達した際は、攻撃者の意図に力づくで自動的に服従させ、攻撃者の願望の一つ一つを予期し、それに服従させる。つまり自分自身をすべて忘れ、攻撃者に同一化するのである。Yet the very fear, when it reaches its zenith, forces them automatically to surrender to the will of the aggressor, to anticipate each of his wishes and to submit to them; forgetting themselves entirely, to identify totally with the aggressor.」「 攻撃者との同一化のことを取り入れと呼ぶとすれば、その結果として、攻撃者は外的な現実としては姿を消し、精神外界的ではなく、精神内界的になる。しかし精神内界は、あたかもトラウマ的なトランス状態のように、夢のような状態において一次過程に従属し、つまりそれは快感原則に従い、それは陽性ないしは陰性の幻覚に形を変える。As a result of the identification with the aggressor, lt us call it introjection, the aggressor disappears as external reality and becomes intra-psychic instead of extra-psychic; however, the intra-psychic is subject to the primary process in dreamlike state, as is the traumatic trance, that is, in accordance with the pleasure principle, it can be shaped and transformed into a positive as well as negative hallucination.」「ともあれ攻撃は動かしがたい外的な現実としては姿を消し、子供はトラウマ的なトランスの中で、以前のやさしさの状態を維持するのである。In any event, the assault ceases to exist as an inflexible external reality, and the child, in his traumatic trance, succeeds in maintaining the former situation of tenderness.」「 しかし何といってもこの攻撃者への同一化、すなわち恐れに基づく同一化が引き起こす子供の情緒生活の最大の変化は、大人の罪悪感の取入れなのだ。そしてそれが子どもの遊びの中に、処罰すべき行動を表す。Yet the most important transformation in the emotional life of the child, which his identification with the adult partner, an identification based on fear, calls forth, is the introjection of the guilt feeling of the adult, which gives hitherto innocent play the appearance of a punishable act.
「子供はそのような攻撃から回復した後、極度に混乱し、事実すでにスプリットし、同時に無垢でかつ罪悪感を持つ。When the child recovers after such an attack, he feels extremely confused, in fact already split, innocent and guilty at the same time.

この後、攻撃者の大人は攻撃の事実を否認し、極度に道徳的になる。そして「どうせ子供だから何もわからないだろう」と思う。子供は母親に助けを求めるが、相手にしてもらえない、という記述が続く(以上、同論文298299ページ)。そしてこの記述。
「この観察の科学的な価値は、十分に発達していない子供のパーソナリティは、突然の不快に対し、防衛ではなく、脅してくる、ないしは攻撃してくる人物への同一化と取入れであり、それは恐れに基づいた同一化である。The scientific importance of this observation is the assumption that the still not well-developed personality of the child responds to sudden unpleasure, not with defense, but with identification and introjection of the menacing person or aggressor, identification based on fear.
フェレンツィはさすがである。なぜなら現代的なトラウマの考え方をすでにほとんど先取りしているからだ。なぜそういうことができたのか?それは臨床素材をしっかり見ていたからだ。レーベンフックが光学顕微鏡を用いて観察を発表したのは1600年代の後半だが、もし100年前にその顕微鏡を手に入れた人がいたら、同じ植物の細胞の画を描いただろう。フェレンツィもすでに1930年代に、現在のトラウマ論者と同じものを同じレベルの心の顕微鏡で見ていたということになる。
私はフェレンツィのこの論文を部分的に訳してみて、何も付け加えることはない。攻撃者との同一化、取入れという考えは今でも生きていると思う。

フランケルはここで、攻撃者との同一化は二種に分かれるという。一つは攻撃者の主観的体験。もう一つは攻撃者が思い描く子供の体験。わかりやすく言えば、「いつもいい子でいろよ!」という体験と「僕はいい子だ」という体験である。これを Heinrich Racker の同調型と補足型の同一化という議論から説明するのだ。このことはトラウマを負った子供がなぜ攻撃的な人格を宿すかという人の一つのヒントを与えてくれると言っていいであろう。これに従うならば、アンナ・フロイトの意味の「攻撃者との同一化」は同調型の方だけを論じたものといえるだろう。

「攻撃者との同一化」という概念の問題

ただし、私はここで一つ提言したいことがある。この概念は誤解されやすいということである。しばしば私も含めて誤解しやすいのは、このようにして解離の人の中に黒幕的な人格が形成されるということである。その可能性も否定はできないが、フェレンツィの言っていることを理解するならば、それだけとも言えない。言葉の混乱の翻訳の一部をここに再録しよう。「大人の圧倒的な力と権威により彼らは黙らされる。しばしば彼らは感覚を奪われるのだ。しかしその恐怖そのものは、それが頂点に達した際は、攻撃者の意図に力づくで自動的に服従させ、攻撃者の願望の一つ一つを予期し、それに服従させる。つまり自分自身をすべて忘れ、攻撃者に同一化するのである。つまり、攻撃者の意のままになる、ということを言っているにすぎない。これは他者を攻撃する人格部分がこのようにして成立するということを言っているわけではないのだ。これはむしろ「あんたはお姉ちゃんでしょ。いい子でいなさい!」と言われて「いい子」になる子供に似ている。別に「攻撃者」でなくても、解離傾向の強い子供は同一化するのだ。やはり攻撃を受けた際に生じることは、私の「第3の経路」に従う気がする。
子供の取り入れの力はおそらく私たちが考える以上のものである。様々な思考や情動のパターンが雛形として、たとえばドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には他人から辛い仕事を押し付けられて不満に思い、その人を恨む人の話も出てくるだろう。子供はそれにも同一化し、疑似体験をするだろう。脳科学的にいえば子供のミラーニューロンがそこには深く関与しているはずだ。こうして子供の心には、侵襲や迫害に対する怒りなどの、正常な心の反応も、パターンとしては成立しているはずなのだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れつつも、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している部分を併せ持つのである。子供が高い感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そのような事態が生じるだろう。あとは両者を解離する傾向が人より強かったとしたら、それらは別々に成立し、一方は「箱の中」に隔離されたままで進行していくのであろう。実に不思議な現象ではあるが、解離の臨床をする側の人間に必要なのは、この不思議さや分かりづらさに耐える能力なのだろう。