2015年5月20日水曜日

精神医学からみた暴力(再推敲後)4

このところユーチューブで Joey Alexander の演奏を見ることが多い。なぜ11歳でここまで成熟した演奏が出来るのか?何か奇跡を見ているようである。



具体的な治療的介入の試み-筆者の場合

さて以上は原田氏の著作の治療に関する項目を紹介した形になるが、そこでのエッセンスとなる部分について述べたい。それは、上述のセントラルエイトのうちの①反社会的認知に相当する。②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみも、認知的な問題ということでは①にまとめていいであろう。そしてその認知の問題に注目して認知行動療法を行うことには明らかな効果があり、再犯防止につながると述べられているのだ。これは確かに新鮮な提言であり、「サイコパスには治療は不可能である」という私たち臨床家が慣れ親しんだペシミズムへの反省を促してもくれる。もちろん彼らに対してその考え方を根本から変え、まっとうな人間に生まれ変わらせることは不可能に近いのかもしれない。人間の「育て直し」などは本来不可能なことなのである。その意味では治療の成果として目覚ましいものは期待できず、せいぜい再犯率がたとえば6割から4割に減る、という程度のものでしかないだろう。しかしそれならそれ以外の精神疾患、うつとか境界パーソナリティ障害とか解離性障害の治療が、それに比べてはるかに治療効果が上がっているかと言えば、そういうわけではない。精神科医療は多くの場合、「少しだけ改善」に役立つだけなのである。いずれにせよ「サイコパスは救いようがない」は、実は私たちが持っている偏見かもしれないのだ。
ではこの反社会的認知とは一体何か? ①の反社会的認知はたとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「やつらをポアするのは人類を救済するためだ」(某宗教集団)というような思考であり、それに従うことで、現実の他者への攻撃性の抑止が外れてしまうというようなものだ。②の「敵意帰属バイアス」として分類されているものは、見当はずれの相手を恨むことであり、私のこれまでの自己愛の議論(岡野、19992014)では自己愛憤怒(コフート)にあたる。居酒屋で隣のグループの一人が「馬鹿じゃないの」と言ったことを、自分のことだと捉えて、ナイフでその人を刺し殺してしまったりするという例(それを原田氏は「馬鹿じゃないの殺人」と命名している)が挙げられる。私がこれまで述べた4タイプについても、独特の反社会的な認知がみられるのであろう。そのことを踏まえつつ、それぞれの4タイプについての治療について触れたい。
岡野憲一郎 (1999) 恥と自己愛の精神分析理論 岩崎学術出版社

1.怨恨、復讐による場合

このタイプでの典型的な反社会的認知は、「私は相手により深く傷つけられた」、「私は相手により人生を台無しにされた」というものであろう。ただしこの認知は彼らの人生そのものから醸成されている可能性があり、彼らにとってのアイデンティティにすらなっている。生育環境から生じた親への恨みや極端な自己価値観の低さは、一時的な治療的介入で癒せるものではないことは、経験ある臨床家であれば十分承知しているはずだ。だから私たちはこの認知に介入することは決して容易な作業ではないことを覚悟しなくてはならない。
 しかし私は彼らの認知を是正することとは違った視点から、これらの人々の暴力の暴発を遅らせることが出来る可能性は残されていると思う。すでに例として出している秋葉原事件の犯人の場合には、彼が事件の実行前に体験したのは、誰も彼のスレッドに書き込みをしてくれない、という激しい失望だった。それが世間に対する恨みを急激に増したわけだが、それを一時的にでも癒すことが出来たのは、それを慰めてくれる人、コフートの言う自己対象的な機能を果たす存在だったのだ。それにより少しでも彼らの孤立無援や自暴自棄を遅らせることができるなら、それが暴力行為の暴発を防ぐことになったかもしれない。もちろん彼らの孤独を癒すことはその場しのぎでしかないかもしれない。
そのような自己対象的な存在は、結果的に犯人の「認知」を是正する可能性もあった事も理解すべきであろう。他人に理解されることで「自分は生きていく価値があるのだ」という「認知」が生まれる可能性もあるのである。
 なお被害妄想が統合失調症や妄想症によるものである場合には、抗精神病薬が功を奏する可能性は十分にあろう。ただし当人が服薬を断固拒否する可能性もまた高いために、この手段も無効である場合がある。

2.相手の痛みを感じることが出来ない場合

いわゆる自閉症スペクトラムのごく一部や、サイコパスや情性欠如と呼ばれる人々では、加害殺傷の際に、相手を単なる「もの」と見なすような思考が典型的な形で見られるのではないだろうか。「人間だって食用の牛や豚と同じ動物ではないか」という類の思考である。すでに解説したとおり、相手の痛みは知的なプロセスを経ることなく、それこそ動物でも直感的に感じ取れるものである。それを認知の是正により解決することは不可能に近いであろう。それは色覚異常の人が天然色を体験することが不可能なのと同様である。おそらくコアなサイコパスは、認知療法的な治療に最後まで抵抗するのではないか、という悲観論を私は持っている。


3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
 
このケースに関しては、私は彼らの認知的な歪みを是正する可能性はさらに小さいといわざるを得ない。いかなる理性的な思考を持たせようとしても、自らが得る快感がそれにはるかに勝っているとしたら、認知療法の効果も限られているように思う。その意味ではこのタイプの加害者の治療は、薬物依存の患者に対する心理療法的なアプローチと同様の困難さを伴うであろう。
 このタイプの加害者に対しては、むしろ生物学的なアプローチがより有効かもしれない。実際の去勢はさすがに倫理的な問題があるにしても、科学的な去勢といって、薬物により男性ホルモンを低減させるということで、若干の効果がみられることがある。私にも米国時代に経験があるが、人を縛って快感を得るという思春期の患者に、黄体ホルモンを打った。毎週結構な量のホルモン注射になり、おかげでテストステロンは限りなく低減したが、それでも病棟でこっそりと他の患者を縛っていたということが発覚してガッカリしたしたという思い出がある。
もう一つこれは精神医学の教科書にはあまり書いていないが、抗うつ剤の使用が有効である場合もある。特にSSRISNRIといった抗うつ剤には、性欲減退という副作用がある。これも米国での体験であるが、ある露出癖のあるラティノの中年患者に、プロザック(米国では一昔は代表的だったSSRI,日本には入ってきていない)を飲んでもらった。ちなみに彼に抑うつ症状は見られなかった。しばらくするとあまり露出に興味をなくして、「もうどうでもよくなりました」と、頼もしい証言を聞いた。少しは役に立つかもしれない。幸いなことに性的快感を伴う他害行為は、男性が年を取るにしたがって男性ホルモンが落ちてくるにつれて、明らかにその勢いがおさまっていくということは観察されている。

4.突然「キレる」場合

この原因としては、脳の器質的な問題を考えるべきであろう。これに関しては精神科領域では主として抗てんかん薬やリチウム、抗精神病薬などが用いられてきた。そのほか、オキシトシンでも効果が期待できるかもしれない。オキシトシンは扁桃核を抑制する働きがあり、その分カッとなって暴力行為に及ぶという可能性は低くなるのではないか?

最後に

本稿では攻撃性や暴力について精神医学的な考察を行った。暴力的な人々に対して、治療的なペシミズムに陥らずに、彼らのさまざまな「反社会的認知」を理解し、可能な限り対処していくという姿勢が求められているのだろう。しかしそれでも彼らに対してなすべきことには限界がある。おそらく14の全てを兼ね備えてしまった人間に対して私たちが出来ることは限られているのであろう。そのような人を想像してみよう。そこで想像できる最悪の人間像はは目も当てられない。まず発達障害的な素地を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまった場合などうだろうか。真に私たちが備えなくてはならないのは、社会適応をそれなりに遂げ、権力にまで結びついた攻撃性や暴力かもしれないのだ。