2015年5月8日金曜日

精神医学からみた暴力 (14)


さて、ざっと原田先生の本の治療の項目を紹介したが、これをどのように消化するか。私は一貫して攻撃性は本能としてはないのだ、と言っているが、同時にファンタジーの世界で攻撃をすることは一般にいくらでも行われているとも述べた。そしてファンタジーとしての攻撃性と現実の攻撃性という分け方はしてきた。問題はこのファンタジーと現実との区別が時には非常にあいまいになり、それが犯罪につながるという事情である。それを仮にファンタジーと現実の「誤認」ととりあえず呼んでおこう。この誤認が起きるプロセスがさまざまに有り、そのリスクファクターもたくさんあるというわけだ。そこで一番コアになる部分ははやり、①反社会的認知ではないかと思う。そしてそこに対して認知行動療法を行うことには明らかな効果があり、再犯防止につながると言っているわけだ。これは確かに新鮮な提言であり、「サイコパスには治療は無理!」という私たち臨床家が慣れ親しんだペシミズムにも反する。しかしやはり彼らに対して根本的な治療を行うことには幾多もの困難が伴い、ましてや彼らをまっとうな人間に生まれ変わらせることは出来ない。その意味では治療の貢献はたとえできても目覚ましいものではなく、再犯をする可能性が、たとえば6割から4割に減る、という程度のものかもしれない。しかしそれならそれ以外の精神疾患、うつとかボーダーラインとか解離性障害がそれに比べてはるかに治療効果が上がっているかと言えば、そういうわけではない。「サイコパスは救いようがない」は、実は私たちが持っている偏見かもしれないのだ。原田先生はこのことを、あの宅間守(法廷でさえ遺族の気持ちを逆なでする暴言を繰り返した)でさえ反省の気持ちを表現するようになったという例を引いて説明している。
 もう少し説明しよう。この①とは、たとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「あいつをポアするのは人類を救済するためだ」というような思考であり、それに従うことで、「誤認」が容易に起きてしまうという事実だ。②は私のこれまでの議論では自己愛憤怒にあたるものであり、「自分は恥を雪がなくてはならない」と松の廊下で相手を斬りつけたり、居酒屋で隣のグループの一人が「馬鹿じゃないの」と言ったことを、自分のことだと捉えて、ナイフで刺し殺してしまったりするという例が挙げられている。
私のまだ固まっていない理論を繰り返すと、ファンタジーにおける攻撃性が現実の攻撃性に「誤認」(うーん、やはりこの言葉はよくないなあ)されるプロセスは、その言葉のごとく誤認であり、それは通常は大きな歯止めがかかっているものの、ある時には簡単に外れれてしまう。それがこの反社会的認知、というわけだ。