2015年4月2日木曜日

恩師論(推敲後)1

前置き
私は素晴らしい恩師に出会えて自分を導いてもらった、というたぐいの話を聞くのが苦手である。できれば聞きたくない。そう思う理由は二つある。
一つは、私がおそらくいい恩師に出会えていなくて、そのような話をする人がうらやましくてしょうがないのだ。テレビで松井秀喜氏が、長嶋茂雄氏という偉大な恩師から、手取り足取りバッティングをコーチしてもらったという話を聞いた。やはりどこか羨ましいし、悔しい。だから好きになれない。まあ、これはふざけた理由だ。だから私は●●さんが××先生の話をすると腹が立つのである。繰り返すが、それはうらやましいからだ。
もう一つは、そのような恩師にはなかなか出会えないからだ。しかしその例外もある。

先日NHKで錦織とマイケル・チャンの話をしていたので、思わず見入ってしまった。わずか一年で錦織を変えたマイケル・チャン。間違いなく恩師と言って良いだろう。そのチャンは、出会った時に、滔々と皇帝フェデラーへの敬愛の念を語る錦織に、こう言ったという。
「フェデラーを尊敬するなんておかしいよ。本来は戦って破る相手だろう?その相手に惚れ込んでどうするんだい?」(もちろん正確ではないかもしれない。テレビ番組を記録したわけではないからだ)。それからチャンはいろいろな指示を錦織くんに与えたという。反復練習をさせる、フォームを直す、もっとコートの前の方で戦え、など。チャンのコーチングでは、たくさんの「~しろ」が錦織くんに伝えられた。彼はおそらく「仕方なしに」「半信半疑で」従ったのだろう。(何しろ彼は、反復練習は好きではなかった、というのだから。)そして同時に「自分を信じろ」と何度も繰り返して言ったのだ。
 自分を信じろ、という励ましについてはわかりやすい。勇気付け、背中押し。多くの恩師がこれをやるのだ。しかしたとえば「ジムでのトレーニングを、これまでの一時間から二時間増やせ」というのはなんだろう。どうして彼はチャンに言われるまで、それをしなかったのだろう?錦織くんは、実はトレーニングや反復練習は好きではなかったという。おそらくそれまでに彼にそれを勧めた人はいたのであろうが、チャンほど強いメッセージで彼にそれを促したことはなかったのだろう。それでは錦織くんはその躍進を一方的にチャンに負っているのだろうか?でもそもそもチャンに近づいてコーチを依頼したのは錦織くんのほうなのだ。ここがフクザツで面白いところだ。彼は積極的に受身的に変わるための行動を起こしたのだ????
観客席で見つめるチャンは、錦織くんのポイントの一つ一つにリアクションを起こし、いわば彼と同一化して苦楽を共にする。錦織くんの成功は彼の成功、サービスの失敗は彼の落胆に直結している。いちいちガッツポーズを作ったり、頭を抱えたり。恩師が弟子に対して「そのためを思い」耳に痛いことをも言う。これは恩師として慕われる人の行動のひとつの大きな特徴だろうが、ではなぜそれが生じるのか。それは恩師の側の弟子への惚れ込みやリスペクトがある。一緒に一喜一憂する「に値する」弟子でなくてはならない。ということは、恩師と弟子の関係は親子関係のようなもの、お互いにコフートの言う自己対象としての意味を持つのだろう。

このように書いていると、錦織―チャンのカップルは、何か絵に描いたような弟子―恩師関係に見えてくる。私が「そんなのないよね」と言っていたような。そう、こういう幸運な組み合わせもあるのだろう。ただしすべての点で二人の息があっていたかどうかは、おそらく傍目からはわからない。
世界ランキング二位まで行ったチャンにとって錦織くんが「現役時代の自分より格下」として認識されているとしたら。錦織くんの練習への情熱の薄さにイラっとすることがあったら?あるいは逆に彼の才能をチャンがねたましく思う瞬間があったなら?錦織くんにしてもチャンのことを煩わしく思い、常に一緒にはいたくない存在と感じることもおそらくあるであろう。そう、絵に描いたような恩師は、やはり絵に描いたものに過ぎないのではないか、という思いも残る。やはりむしろ親子のようなものかもしれない。その関係は大概は(少なくとも子の側からは)「ちょっとあっちに行ってくれー」と敬遠するような、一緒にいると気を抜けないような存在なのである。それにそもそもニシコリ君が負け続けてコーチ台が払えなかったら、おそらくマイケル・チャンは目の前から消えてしまうかもしれない。それって師弟関係なのだろうか?
もちろん裏の面があまりない、という人もいる。島津斉彬は素晴らしい君主だったらしい。あと河合隼雄先生とたくさんのお弟子さんたち。いい話をたくさん聞く。また島津斉彬と西郷隆盛。
そこで私の本稿でのテーマは二つである。まずは一つ目。

師との体験は、「出会いのモーメント」である。それでいいではないか。

恩師の話には、たえず理想化された人物像がつきまとう。一家をなした人の過去には、必ず恩師との出会いがある、というイメージを私たちは持ちやすい。そしてその恩師は人間的にも優れ、すぐれた教養や技術をもち、後世の育成に力を尽くす愛他的な人物というニュアンスが伴う。しかし世の中にそんなに素晴らしい人など、そうそういるものではない。
 ある非常にいい出会いがあり、その人に心酔したくなっても、その人は別の側面を持ち、全面的な理想化には絶えないのが普通だ。というよりは人の全側面を知ると、その人を理想化することはおそらくできなくなる。だから恩師とは距離を置いて、理想化を続けられることで初めてその人にとって一生の恩師、という感じになるのではないだろうか?恩師はあまり身近にいてはいけないのである。おそらくどんな恩師でも、いつも近くにいるとうざくて仕方なくなるだろう。どこかでラカンについて書いてあったが、ラカンはおそらく身近にいたらとても耐えられないような人であったという。でもあれほど理想化されている人もいないのではないだろうか?
しかしこう述べたからと言って、恩師の存在に意味がないというわけではない。恩師は私たちに人生の上での非常に大きな指針や勇気を与えてくれるなくてはならない存在である。私が日常の臨床からつくづく体験するのは、私たちが理想化対象を求める強さである。この強さは、結局は私たちの自己愛の強さの裏返しであるという結論に至らざるを得ない。私たちは結局は自分が可愛い。自己イメージは多少なりともインフレしている状態で牽引力を発揮する。よく聞くではないか。「自分は平均以上の~である」(「~」には、運転のうまさや対人関係の巧みさ、その他様々なものが代入される)に丸をつける人が、常に78割入るという調査結果だ。(理屈から言えば平均以上が78割、ということがそもそもアリエナイというわけだ。)自分がかなりいけているという幻想を私たちは持ち続けざるを得ないというのが、自己愛問題だが、これは容易に他人に投影される。すると「すごい人」を外に想定し自分を同一化させるのだ。
私が言いたいのは、恩師とはある種の出会いを持てた相手であるということである。その人が継続的に自分に影響を与えるようなイメージは持たないほうが良い。だから出会いの数だけ恩師がいていいのだ。そこで・・・
恩師との体験について考えると、治療体験とどこか似ている。精神分析のボストングループの「出会いのモーメント」でもいいし、村岡倫子の「ターニングポイント」でもいい。その出会いで何かが起きることで、物事の考え方が(いい方向に)変わる。そこには治療関係と似たことが起きるのだろう。
この出会いのモーメントの特徴は、それを計算し予想することが難しい点である。何がどのように影響を及ぼすかなんて、わからない。私はこの「出会い」を愛他性が発揮された状態と考えることが出来ると思う。治療関係でも師弟関係でも、アドバイスが、指導が、「解釈が相手のため」に行われる、あるいはそうと体験されるときがある。その瞬間があればいいであろう。愛他性は簡単には発揮されないし、そうと体験されない。ある患者さんの話。先生は一緒に歌を歌ってくれました。愛他的と感じた。
そんな例をここで示してみよう。こんな例は読んでホッコリするね。珍しく精神科医がほめられているし。

宮本亜門 (演出家)
高校時代の僕は引きこもっていました。人とコミュニケーションがうまくとれず、自分の気持ちをどう表現していいかもわからなかった。毎日がつらくて「明日なんていうものがあってほしくない」と思っていました。でももうあんな苦しみは味わいたくないんです。だから感情を抑えたり我慢したりしないように心がけています。感情を溜め込むと、それがマイナスに働いてしまうタイプだというのもわかってきたので。
引きこもりはどうやって克服したのですか?
母にいわれ、思い切って精神科へ行ったのがよかったんです。薬はもらわなかったのですが、担当医師がとても穏やかな方で、「君の話は面白い」と僕の話をすべて肯定して聞いてくれました。おかげで「こんな僕でいいんだ」人と違っていいんだ、と思えるようになりました。
この例は、精神科医は恩師というわけではなく、本当の意味での一度きりの出会いだったわけだが、それでもこれほど大きなインパクトを与えてくれたということは、私の「出会い」論を支持してくれているのではないかと思う。

「出会い」のメカニズム
「出会い」のメカニズム、などと書くと、「出会い」は一つの欠くべからざる性質を持っていて…・ということになりそうだが、そうではなく、いくつかの要素を持った複合的なものなのだ、という議論になる。これは仕方がないだろう。治療における「出会いのモーメント」と、そこの部分は同じになってしまうのだ。Gファクターの議論とも似ている。私はそこに含まれる二つの要素に注目したい。
1. 目の前であることを実演してもらうことのインパクト
2. その人に直接支持、勇気づけ、あるいは叱責を受けることのインパクト
人間は関係性の中で途轍もない刺激を受ける。もちろん著書を読んで、影響を受けるということもあるが、その人が身近にいて言葉を発することで、その影響力は倍増する。どうしてだろう?ミラーニューロンがそれだけ活動するからか?ただし・・・・その人と長く一緒にいてはいけない。その人が「フツー」になってしまうからだ。
 そこで1.の例だが、私自身の体験から言えばやはりモデリングか、という印象がある。

目の前でお手本を示してもらったという体験。Dr.Hのことを思い出す。私が30歳代の前半、オクラホマシティで初めて精神科のレジデントトレーニングを行った時のバイザーで彼は小柄であごひげを豊かに蓄えたエジプト人(毛が頭の上から下に移動したタイプ)。いつも笑みを絶やさない、温厚な人柄。「人に温かい」とはこういうことだ、ということを目の前で実践してくれた。(それまで、そういうことは考えたことがなかった。)
 私の配属されたのは、VAHospital (在郷軍人病院) で、そこの精神科病棟には数十人のベトナム帰りの心を病んだPTSDやうつの患者さんが群れていた。VAとは戦争帰りの患者さんが、無料で入れる病院として、各州に数個ずつ作られている。患者さんたちは時にはろれつが回らず、時には意味不明の訴えを持ちかけてくる。Dr.Hはどの患者にも誠実に対応するので人気があり、彼が病棟に姿を現すと患者がひっきりなしに話しかけてくる。彼はどんなに忙しくても疲れていてもしっかり対応する。私はそれを横で見ているのである。
 ある月曜の朝、病棟である患者さんが何か、非常に取るに足らない「報告」をDr.Hにしてきた。どうにも返事のしようのない、週末の生活の様子についての報告。Dr.Hは“well, Mr.so and so, thank you for telling me.” 「私にそれを話してくれてありがとう」となる。英語にはこうやって日本語にすると意味が消えてしまうようなどうと言うことのない表現がある。それにしても「話しかけてくれてありがとう」は「あなたが、そこにいてくれてありがとう」みたいな感じ。そんな言葉ってあるんだ、と新鮮だった。うーん、これには驚いたね。といっても書いていても説得力がないが。

 実は私にとってはどうして恩師のエピソードとしてまずこれが浮かぶのかよくわからない。この言葉は私に向かっていたものでもないし、Dr.Hは特に私を評価してくれたという訳ではない。彼はいつもニコニコ私の話を聞いてくれただけである。しかしこの“thank you for telling me”が効いてしまい、私はDrHのしぐさ、言動を横で見ていてことごとく取り入れるようになったのである。やはりこれは彼の人徳、と言うのだろうか。誰にでも公平、しぐさや主張は質素だが明確。人には常に同じ姿勢。患者も同僚も同じ。
 彼のエピソードでもう一つ思いだす。アメリカ人は職場で午後5時が近づくと、急にそわそわしだす。皆がこれから始まるアフターファイブに向けて気もそぞろになる。定刻の5時になる前にはタイムカードに向かっている人もいる。日本人の私は何となく定刻に帰る習慣が合わなかったが、Dr.Hは私を含めたレジデントにきっぱりと言った。「君たちは定刻が来たらさっと帰りたまえ。後は当直の仕事だ。」と言って自分でも帰り支度を始める。時間が来たから撤退、と言う感じ。私はDr.Hから、「勤務時間が来た時の帰り方」を身を持って教わったのである。
 やはりこう書いてみると、出会い、と言ってもその人の人柄が決定的だということがわかる。あの人がこういったから、それが心に残る、と言うところがある。しかしその人との関係がずっと続いたという訳ではない。Dr.Hとは私がその後オクラホマシティを離れてカンザスのトピーカに移ったために音信不通になった。ただ一つ後日談がある。Dr.Hと少し個人的な付き合いをさせてもらおうと思い連絡をすると、彼は彼が行っているキリスト教の活動を紹介してくれた。彼の慈愛に満ちた態度や表情と宗教がそこで重なったのだ。でもどう考えても、私はその時以来、Dr.Hのあの穏やかな話し方が「入って」しまっている気がする。自分の声を録音して後で聞いてみると、自分自身が驚いたりすることがあるのだ。
K先輩のこと

彼は恩師、ではないなあ。しかし確実に影響を受けた人である。K先輩は、私が中学に入った時のブラスバンド部の一年先輩である。私は音楽が好きで、見学に行ったブラスバンドのホルンの形に惹かれて担当することになった。後でそれは「なんちゃってホルン」であり、メロホンという楽器だということを知ったわけだ。まあ素人にわかるわけないよね。
 メロホンの立場はまるで下積みである。ちゃんとしたメロディーがないのだ。クラリネットやトランペットなどのメロディーを奏でる楽器たちの下でリズムを刻むだけ。ちゃんとした出番がない。楽器は重い。やる気が起きないなあ、と思っているときに、音楽室のホールでやたらときれいなメロディーを奏でてムードミュージックなどを吹いていたのが子安先輩だった。音色が違う。先輩はもちろんバンドの楽曲でもすばらしい働きをしたが、普段はそんな練習はまったくせず、もっぱら「恋は水色」「恋ごころ」などをビブラートをかけて吹きまくっていた。そんな中学2年生なんているだろうか?子安先輩には様々な伝説が付きまとっていた。楽譜は所見で読めてピアノも弾ける。異常な怪力の持ち主。陸上選手でもある。女性に異常にモテる。時々子安さんはメロホンを手にとり「恋は水色」を演奏したりしたが、驚いた。均一で透き通ったような音。音色がまったく違うのである。彼のマウスピース内での唇の震え方がまったく人とは異なることを知った。私は中学1年の秋にはメロホンを捨ててトランペットに転向し、ひたすら子安先輩の横でトランペットを吹くようになった。そのうち彼がヤマハの銀メッキのトランペットに買い換えるというので、彼がそれまで使っていたドイツ製のヒュッテというメーカーのトランペットを安く譲り受けた。(今でも押入れの奥にある。)そのうち子安先輩の弟分ということになった・・・。なんか恩師の話とはズレてきている。とにかく目の前で同じ楽器を吹き、まったく違った音色を放つ中学二年生を目の前にして、その人物に同一化して憧れてしまうという体験。彼は私にとって恩師というにはあまりに年が若かったが、人に影響を受ける、という意味ではまさに画期的な体験だったのである。

さて2.は直接の勇気づけ、であった。これも書かなくてはならない。恩師的な出会いについて考える際、どうしても出てくるのがDr.Mである。

1993年、メニンガーの精神科レジデントを卒業し、いよいよビザが切れて帰国を余儀なくされていた時期だ。私はトピーカ州立病院の医長に会う前で少し緊張していた。私がビザを延長するためには、州立病院で「どうしてもこの医者が必要である」という類の手紙を書いてもらう必要があったのだ。いきなり初対面の、それもレジデントを終えたばかりの私に、そんな手紙を書いてくれるはずもないだろう、とむしろ諦めの境地で、ともかくもDr.Mに面会を申し込んだのだ。州立病院の医長職にある人物ってどんなだろう?きっと怖いだろうな、しかつめらしい顔をして、「そんな虫のいい話しを私が聞くと思うか!」などと傲慢な態度で一蹴されて終わりだろうな、などと考えながら。メキシコ出身ということだが、言葉が聞き取れなかったらどうしようなどと考えていた。そこに秘書から「ドクターMがお待ちです」と声がかかった・・・。それから約一時間後、部屋から出てきた私は、一時間前にはおよそ想像できないような気持ちになっていた。誰かにしっかり話を聞いてもらい、私の窮状を理解してもらい、私の思春期病遠出のポストを確約して、その旨の手紙を書いてくれると約束してくれたのである。全く予想していなかった出来事。人との出会いが何をもたらし得るのか。私もこんな風に人の話しが聞けるようになりたい・・・・・。
実際あってみたDr.Mは私より三つ年上の精神科医、メニンガーでの先輩に当たる。同じ外国人のレジデントとして苦労をした話をしてくれ、私の立場にも大変同情してくれた。彼自身もビザの問題でメキシコに数年間帰国していなくてはならなかったという。そしてつい最近トピーカに戻り、州立病院の医長としての職を得たという。

Dr.Mのことを書いてみると、単なる勇気づけではないという気がしてきた。というのも私はこう書いてみると、やはりD.HDMが自分に「入っている」ように思う。彼らは人と話すとはどういうことなのかを示してくれた。Dr.Mについて言えば、私は彼の私への話しかたが特別であったかとか、実に立派な傾聴の姿勢を示してくれたとか、ということに感動したというわけではない。そうではなくて、彼が私を普通の人間として、温かく、そして普通に、対等に話してくれたのである。ちょうどたとえば異国であった同朋人のように。あるいは知り合いの知り合いということで相談を受けた人に話すように。立場の違いからくる居丈高さとか上から目線とかのない、普通の話し方。私はその時、今後臨床をするうえで、どのような人とも、普通に話せるようになりたいと思った。相手が目上でも、年下でも、著名人でも、患者の立場でも、生徒の立場でも、である。人として普通に話し、しかも助けとなることを目指すこと。それ以外に人との話し方に関する技法とか秘密はない。Dr.Mはあの一時間でそんなことを教えてくれた。その後彼は私の中で一生消えない友人であり、メンターでありつづけている。
ところで結局は「出会い」のメカニズムのもう一としての勇気づけ、ということが残っている。あなたは大丈夫だよ、やれるよ、という種のメッセージを貰うこと。人は他者からの勇気づけを渇望しているところがある。自分で自分を鼓舞することでは決して得られない勇気や自信を誰かに伝えられること。
私はいつも不思議に思うのだが、全然見ず知らずの他人の一言が影響を与えるのだ。「あなたの講演を聞きました、本を読みました、よかったです」、というほんの一言のメッセージは、それが時には自分が全く知らない人からの方が意味を持ったりするのはなぜだろうか? もちろん知っている人からのメッセージがありがたいこともある。本当に自分を知っている人から評価されたい。しかし家人に勇気づけられてもあまりピンとこないことがあるとしたら、それはなぜなのだろう。(まあ、実際にそうされたことも思い出せないのだが。)だからこれはやはり出会いなのだ。見知らぬ誰かからいわれた一言が決定的な影響を与えることがある。それは恩師というわけでは必ずしもないだろう。街の占い師かもしれない。
「恩師論」だからそちらに話を戻すと、私にもそのような体験がある。あの時あの場面で、あの恩師からいわれたこと。20年も前のことだ。それを何度も反芻している。そして「よし、やれるぞ」と思う。これは一生の宝物のようなものだ。しかしこれはあまりにプライベートなことなので書けない。書くと「減って」しまうような気もする。そしてこれもまた重要なメカニズムにカウントするべきであろう。