2015年4月1日水曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (7)


 で、スターンはこんなことを言っている。「解離とは、好奇心を無意識的に拒絶することである。」うーん、わからない。というか、もう無意識的、というのがわからなくなってきている。無意識的って、簡単に言うな!といいたい。「ガダマーによると、私たちは決して現実そのものを知覚することが出来ない。」(別に、ガダマーじゃなくてもいいそうなことだが。)「そのわかり、私たちは現実を構築するのだ。」と。そしてその構築の際に依拠するのが、バイアスと先入観だ。ところが、新しい体験とはそのバイアスや先入観を超えたところにあるというのだ。そうだろう。期待を裏切る新しいものが、体験として記憶に残るのだから。
そしてスターンは言う。「留まることのない好奇心は、解離の対極にある。」・・・少しずつわかってきた。解離とはそこに新しいものを見ないこと、新しそうなものを見ても、それが何かと定式化 formulate しないことであるという。言い換えると、解離とはフォーミュレイトされていない体験ということになる。
この後論文は、「強い解離」と「弱い解離」という分類について紹介する。彼は「受動的な解離 passive dissociation」、ないしは「弱い意味での解離 dissociation in a weak sense と「能動的な解離 active dissociation」、ないしは「強い意味での解離 dissociation in a strong sense」があるという。前者は私たちが単に心の一部に注意を向けない種類の体験といえる。それに比べて後者は無意識的な動機により私たちがある事柄から目を逸らしている状態で、こちらはトラウマに関係しているという。この両者を本書では呼びやすく、「強い解離」と「弱い解離」と呼ぶべきであろう。
(おしまい)