2015年3月2日月曜日

自己愛と恥について(最終稿)

自己愛と恥について
                       岡野憲一郎
自己愛の問題と「自己愛トラウマ」

自己愛に関する論考として私に与えられたテーマは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいことである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
そもそも自己愛の問題を臨床的に取り扱わなくてはならないのはなぜか。それは人の持つ自己愛の問題が周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼしかねないからである。自己愛者(本稿では自己愛的な問題を抱えた人についてこのような呼び方をさせていただこう)は周囲の人々に対して支配的に振る舞ったり、怒りをぶつけたりする。彼らの多くは社会の中では強者であり、虐待者の側に立ちやすい存在と言える。彼らの病理を理解し、治療的に扱うことは多くの人を救うことになるのだ。
このような自己愛者の振る舞いを理解するためには、彼らの心にある、実は非常に脆弱で敏感な部分を把握する必要がある。彼らはそこを突かれ、侵害されたと感じて、周囲に対して反撃しているという場合がほとんどなのだ。ある意味では彼ら自身が最初にトラウマを体験していて、自己愛的な言動もそれに対する反応として理解せざるを得ない部分がある。私は最近「恥と自己愛トラウマ」という著書を上梓したが(岡野、2014)、このタイトルはそのような事情を端的に表しているといっていい。
 ちなみに「自己愛トラウマ」というのは私の造語である。自己愛の傷つきが人間の心的なトラウマのかなりの部分を占め、またそれに対する反応は他者への攻撃や辱めとなりうる。これは自己愛人格にとどまる問題ではなく、実は私たち人間すべてに多かれ少なかれ言えることである。とすれば自己愛やその傷付きによるトラウマを知ることは人の心を理解する上で非常に重要となろう。
 以上は「恥と自己愛トラウマ」における主張の要旨であるが、ここで改めて、そもそも恥と自己愛がどのように関連したテーマなのかについて書いてみたい。

そもそもどうして「恥と自己愛」なのか?

ところでなぜ自己愛のテーマと恥とは結びつくのだろうか? 両者はいわば正反対なものとも考えられよう。自己愛とは自分を外に示したい、認められたいという願望に根ざす。他方の恥は、他人から見られることを避け、人前から身を引くという傾向に結びついているだろう。
 私の恥に関する最初のモノグラフ「恥と自己愛の精神分析」は1998年の出版であるが(岡野、1998)、この本を書くきっかけは恥の体験についての私の関心である。私は医師になりたての頃から、いわゆる対人恐怖の心性に興味を持っていた。自分の中にそれを強く感じていたからだ。私が1980年代の半ばに渡仏や渡米をした時、海の向こうの精神科医たちに手土産代わりに何か伝えられることがあるとしたら、それは対人恐怖についての日本における研究であろうと思っていた。その頃は、対人恐怖は、日本に特有の病理と考えられていた時代である。内沼幸雄先生の「対人恐怖の人間学」(内沼、1977)は当時からの私にとってのバイブルである。
ただし確かに恥の感情は、そのいわば対極にある自己表現の願望との関係でのみ十分に理解することができたのである。自己表現の願望があるからこそ、それを真っ向から妨害してくる恥への恐れがこれほど大きな問題となるのだ。内沼博士の所論にも人間の「強力性」と「無力性」の相克が生き生きと描かれていたのである。しかし私はまだ恥の問題を自己愛の文脈からとらえるに至ってはいなかった。
この件で思い当たることがある。高校生のころ、Sというクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましいと思ったことか・・・。彼は私が欲しいものをたくさん持っていた。スポーツは万能で勉強もよくできた。しかし特に人前で物怖じしない態度が素晴らしかった。どうしたらSのようになれるのか? 否、私はどうして彼のようになれないのか。彼と私はどうして違うのか、などと思い続けた青春時代だった。しかしこう書いてみると、恥と自己愛に関する私の関心の原点は、まさにここら辺にあったことがわかる。それは、私が羞恥心が旺盛だった、という一事にはとどまらない。他方には自己を表したいという願望があるからこそ、私はそれを阻む羞恥の問題について考えざるを得なくなった。私が自己主張をしたい、人に存在を認められたいという願望を持たなければ、私は自分の羞恥を自覚することもなかったのである。
ここで自己を表したい、認められたい、という願望を広義の「自己愛」と呼ぶことができるとしたら、私は恥と自己愛の深い関係をこのころすでに生身で体験したことになる。「恥と自己愛」というテーマにはすでに高校時代には逢着していたということになるかもしれない。しかし私の中で恥と自己愛のテーマが明確な形で結びついたのは、それから十数年後の米国留学中であった。

米国では成立していた自己愛と恥の理論

 アメリカで恥に関する精神分析の書籍が目白押しに刊行されだしたのが1980年代である。アンドリュー・モリソンの「恥―自己愛の裏面 Shame Underside of Narcissism」(Morrison, 1989)という本は特に私にとっては非常にインパクトが大きかった。彼の主張は、そもそも「コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考である(コフート自身はそう明言はしていないが)」「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても明確なものだった。そのころ私は十分にコフート理論に興味を覚えていたし、それと私が以前から関心を抱いていた恥の議論と結びつきについても非常に興味深かった。このあたりから、私の中では恥と自己愛の問題は互いに関連したテーマとして扱われるようになった。そして恥について自己愛との関連から論考を発表することも多くなった。これも精神分析においてモリソンらによって、「恥 ―(コフート理論)- 自己愛」という路線が引かれたおかげだったのだ。
さて米国に発するこの恥と自己愛のテーマの連結については、多くの人にとっては特に異論はないであろうが、一部からは単純化しすぎているという反論もあり得るとも思う。自己愛を、一般的に理解されているような、「人より優れている、自分は世界の中心である」と感じる病理だとすると、それが崩れた時にのみ恥が体験されるとは限らないだろうからだ。恥は自己を不甲斐ないと思う気持ちだ。恥ずかしい、情けないと感じ、穴があったら入りたいという体験である。それは特に自分を優れた存在と感じていない人にとっても体験されうる。
 一人の人間として
自己を表したい、その存在を認められたい、という気持ちはだれにでもあるものだ。それを先ほどのように広義の自己愛と呼ぶならば、それは健全なものであり、その破綻こそが恥の体験であるという図式は妥当であろう。それが私の理解の仕方である。
 この健康な自己愛を守る気持ちが強いほど、つまり自らが「普通でありたい」「皆といて恥をかきたくない」という願望が大きいほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということが言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。私はSのようになりたいと強烈に願った。だからなれなかった自分を強烈に恥じたのである。
この広義の自己愛、健全な自己愛ということを恥との関連で考えた場合、森田正馬が唱えた、対人恐怖のとらえ方なども同じような概念化に入ってくると言えよう。森田に特有の「負けず嫌いの意地っ張り根性」という概念化やそれを踏襲した内沼幸雄先生の「強力性と無力性の葛藤」という考え(ドイツ精神医学、特にクラーゲス(クラーゲス、1992)に見られるが、クレッチマー、カレン・ホーナイなどへの影響もある)のとらえ方もある意味では自己愛のことを論じていたと理解できるのである。
以上のように、私は恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己の存在やその主張を認められたいという願望」との緊張関係の中で捉える。それはいわば恥と自己愛の二次元モデルとも言える。人には必ずしも自己顕示的な行動に出なくても、他人から自分のありのままの存在を認められたいという、ごく自然な願望を持つ。これは発達早期に母親に自分の姿を捉えて欲しい子供の姿を見ればわかる。私たちは成人した後にも、日常場面で常に相手から正当に認められることを期待するものだ。そしてその期待値を上回った際には自己愛的な喜びを感じ、下回った場合には恥辱の体験となる。
 相手から認められたいという願いや期待はきわめて流動的であり、状況依存的である。たとえば職場で自分より目上の人とすれ違った時にぞんざいな挨拶しかされなくても、あなたは特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけで、あなたは激怒するかもしれないのだ。このように自己の存在やその主張を認められたいという願望をすべての人が持つものとしてとらえることは、私が先に用いた自己愛者ないしは自己愛的な人間を画一的に想定し、恥はそれらの人たちに特異的な体験や病理である、という考え方よりはより現実的であろう。

「自己愛アフォーダンス」とそのミスマッチング

ここでとっぴな用語を用いることをお許し戴きたい。「自己愛アフォーダンス」とはこれまた私の造語であり、本稿だけで実験的に用いることにする。
 そもそもアフォーダンスとは、「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」(ギブソン、1979)である。アフォーダンスの例としてよく用いられる「引き手のついたタンス」について考えるのであれば、「""はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、という関係が成立していることになる。そしてこれを「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現することになるのだ。
自己愛アフォーダンスとは、ある対面状況で、自分が相手から認知され、敬意を表される度合いとして、その個人により各瞬間に推し量られる。ある人気アイドルが、巧みな変装をして雑踏に入るとしよう。人はそうと気が付かないから当然誰も騒がないだろう。しかしアイドル自身にとって認識されている自己愛アフォーダンスも無いに等しいから、無視されても不思議に思わない。ところが颯爽とマスクを外し変装を解いた時に、誰も振り返ってくれないとしたら、彼の自己愛はかなり傷つくはずである。それは彼の中で高められた自己愛アフォーダンスと現実とのミスマッチが生じたからである。
このように自己愛アフォーダンスなるものを考えた場合、私たちの日常は実際の体験と自己愛アフォーダンスの齟齬により常に自己愛的な体験を味わっていることになる。自己愛アフォーダンスとして自分が想定した量より多くの注目や認知を受けた場合には、自己愛的な満足を味わい、場合によっては有頂天になるかもしれない。売れない芸人の一発芸が突然注目を浴びるようになったり、無名の作家が有名な賞の受賞候補に挙がったりしたような場合である。他方ではそれまでは一世を風靡していた「歌姫」が突然CDの売れ行き不振にあえぐ様な体験。それまでは元首相である父親の選挙区を受け継いで順調に政治家の道を歩んでいたはずなのに、突然政治資金問題で槍玉に挙げられ、家宅捜索を受ける女性政治家の例を考えればいいだろう。
ここで特に自己愛アフォーダンスとしての想定量を下回る満足しか得られなかった場合の反応を考えよう。その人はどのような形で対処するだろうか? 一つは恥の痛みであり、それは抑うつや引きこもりという反応を生むかもしれない。「穴があったら入りたい」という表現のように、人から認められなかったり、汚名を浴びせられたりした際の私たちの反応は、世間に背を向け、一切人と関わりたくないという反応である。しかしそこにはもう一つの反応がある。それは激しい怒りであり、「恥をかかされた」と感じた相手への攻撃である。
この反応が、コフートにより「自己愛憤怒」として提唱されたことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験すると喝破した。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしその心のプロセスに仮想的な恥の項目を挿入することもできるかもしれない。自己愛アフォーダンスのマイナス方向の齟齬が、かかわりを持った対象への怒りを生むほんの一瞬前に、人は激しい恥を体験するのだろう。そしてそれへの反応として「この俺のメンツをつぶしたな!!」と激しく怒るのである。

恥と自己愛トラウマ

以上で、私の近著である「恥と自己愛トラウマ」の趣旨は説明できたであろう。私のこの著書は、自己表現の願望が高まった人間が恥の体験と葛藤を起こすような人々についての考察である。この世の中で厄介なのは、自己愛者たちが、他者からの諫めや助言を「恥をかかせる体験」と認識して、烈火のごとく怒り、周囲に様々な災厄をもたらすことである。それがこの世における最大の不幸の一つであるが、この自己愛は、いったんそれをいさめる人がいなくなると、ほぼ自動的に膨張し、フリーラン、暴走をしてしまうのだ、というのが私の主張である。
私が特に「自己愛トラウマ」という造語に加え、この本に「あいまいな加害者」という副題を付けたのは、この自己愛に対する傷つけを起こすような体験、すなわち「自己愛トラウマ」が実は極めて厄介な問題を抱えていることを主張したかったからだ。ここでその論旨を再びたどるならば、何が自己愛の傷つきとして体験されるかは、きわめて予想しがたく、個人差が大きいという問題がそこにあるのだ。私はそれを、たとえばアスペルガー障害における不当なまでに高いプライドや他人への期待値の高さ、そして彼らの被害的な傾向に関して論じた。
 たとえば「浅草通り魔事件」では、犯人は女性を追いかけて声をかけたところ、驚いた顔をされたのでカッとなったという。秋葉原事件で、犯人はケータイの掲示板への自分の書き込みに誰も返答してくれなかったことで自暴自棄になった。これらも広義の自己愛の傷つきによる憤怒と考えられるが、このような反応の大半は周囲の人間には予想がつかない。その原因の一つはアスペルガー障害における思考を通常の社会通念からは追うことが難しいということがあげられよう。
ただし上述したようなフリーランした状態での自己愛を抱える自己愛者にとっては、ほんの些細なことでも彼らを傷つけるのに十分なのである。ある病院のある科の医局長は、外出先を示すボードで自分のマグネットが一番上になかったことに激怒したという。これは極端にしても、複数の人に出すメールで、自分の名前がしかるべき順番に書かれていなかったことに痛く傷つくということは私たちの中でも起きうるだろう。つまりそのような怒りの素地は私たちが皆持っているということになる。
 これらの身勝手な、予想つかない形での自己愛の傷付きも、やはり自己愛トラウマと呼ぶべきであろうと私は考える。それは彼らの傷つきが極めて深刻で、それに対する怒りの反応も深刻なものとなりかねないからだ。しかしそのトラウマは「あいまいな加害者」により引き起こされるものであり、その結果としての自己愛者の怒りも予測不可能な事故や天災のようなものである。
 予測不可能な形で降りかかってくる自己愛トラウマとそれに対する怒りの反応。人間社会に生きる私たちは、このもう一つの「自然災害」にも耐えぬいて行かなければならないのである。

参考文献

 岡野憲一郎:恥と自己愛トラウマ 岩崎学術出版社、東京、2014年.
岡野憲一郎:恥と自己愛の精神分析-対人恐怖から差別論まで. 岩崎学術出版社, 東京、1998.
内沼幸雄:対人恐怖の人間学-恥・罪・善悪の彼岸. 弘文堂、東京、1977.
Morrison, A. : Shame. Underside of Narcissism. The analytic press. Hillsdale, New Jersey, 1989.
ルードヴィッヒ・クラーゲス著 赤田豊治訳、『性格学の基礎』、うぶすな書院、1992年.
ジェイムズ・J・ギブソン 著、古崎 訳『生態学的視覚論ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社、東京、1986年.
ハインツ・コフート著、本城秀次  笠原嘉監訳:『自己の修復』 みすず書房、東京、1995年.