2015年3月1日日曜日

「ユルイ」ここもちょっと推敲した

 解離が生じる仕組みその1 人の意図は自分の意図?

ここでDIDが生じる仕組みにもついて考えてみる。どうして彼女たちの心には、別の人格が宿るのだろうか? そこにはなぜ幼少時のストレスやトラウマの存在が必然なのだろうか?
 その一つの機序として考えられるのは、人の意図や願望や感情が、自分のものと混同されるような状況であると考えられる。
 自分自身を思い出してみる。子供のころ親に言われることにさほど疑問を持たなかった。親の意図は自分の意図。区別はつかなかった。これは実は子供の適応にとって重要なことなのであろう。私だけが特別だったというわけではない。
 しかしこれは健全な状況においてのみ生じているわけではない。虐待やトラウマや、それに関連した解離の問題も、またこのテーマに沿って理解すべき問題なのだ。親に叩かれること、命令されること、あるいは無視され、生きている意味を奪われるような言葉を浴びせられること。それらはおそらく無反省に受け入れられる。「自分は叩かれて然るべき存在だ」と受け入れる。ただそれに伴う痛みや親への怒りや不満は芽生えてくるだろう。それが心の別の個所で生じることが問題なのだ。
それが「どこか」を特定はできない(将来脳科学が進めばわかるかもしれないが。)そこで私はそれを「心の奥にある箱の中」と患者さんに説明する。これが解離のはじまり方の一つなのだ。
 ここで一つの問題がある。どうして心の中に、親に対する怒りや不満が、心の別の部位で生まれるのだろうか?もともと子供の心には生じるはずのないそれらの感情が? 親の意図は子供の意図だったはずなのに?
 ここからは私の仮説である。子供の適応能力はおそらく私たちが考える以上のものである。その中には様々な思考や情動のパターンが存在するのであろう。それはドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には辛い仕事を押し付けられて不満に思い、相手を恨む人の話も出てくるだろう。子供のミラーニューロンはそれをわがことのようにして体験する。子供の心には、侵襲や迫害に対する正常な心の反応も、パターンとしては成立するはずだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れ、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している。子供が正常な感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そうなのである。後は両者を解離する機能が人より優れているとしたら、それらは別々に成立し、隔離されたままで進行していくのであろう。そこから先はまさにブラックボックスである。実に不思議であり得ないことが起きるのだ。解離の臨床をする人間に必要なのは、この不思議な現象を説明できないことに耐える能力なのだろう。