2015年2月28日土曜日

「ユルイ」を少し推敲した

「症候群」に敢えて反論するならば・・・
一つには、解説者の多重人格の捉え方に端的に表れている問題がある。「自分が多重人格だと装っているのではなく、そう思い込む」(解説文)というのはどのような現象だろうか? 一種の錯誤、勘違いなのだろうか? たとえば自分を統合失調症であると「装っているのではなく、そう思い込む」人なら、そうでない理由をきちんと説明することでその誤った考えを捨てることが出来るかもしれない。そこには理路整然とした説明が功を奏するだろう。とすれば解説者もそうすればいいだけのことであろう。ところが彼はそのような訴えについては相手にせず、そっけなく向き合うだけであるという。統合失調症と勘違いしている人にもそうするだろうか? 
 「装っているのではなく、そう思い込む」状態について理解しようとすると、結局一つの結論に至る。それはそのような状態は、存在するならおそらく妄想に最も近いということである。そうならばそれを否定することも、それに乗ることも逆効果ということになる。それこそ素っ気ない態度をとることになろう。しかし解説者ははDIDを妄想とは考えていないようである。DIDと統合失調症などの精神病とは異なる病態であるという理解はあるからだ。
 結局ここでいう「思い込み」を精神医学的に把握するのは難しい。虚言でもないし妄想でもなく、また無視することで自然と消えていくような思考。
実は同じような論法が「新型うつ」にもみられる。新型うつの人は、自分がうつだと「思い込む」けれど、本当のうつではない。そしてうつの診断書を作成したり薬物を投与したりすることでますますややこしくなるから、医師としては「そっけない態度」を取るのがいいであろう、というわけである(この議論については拙書「恥と自己愛トラウマ」(岩崎学術出版社、2014年)にも記した)。岡野:「恥と自己愛トラウマ」岩崎学術出版社、2014
 ただしこのようなことを書くとまた色々議論がややこしくなる。「新型うつとDIDを一緒にするとは何事か!」という人が出てくる。そのような人の話を聞くと、DIDは正真正銘の病気だが、新型うつは偽物だ、という主張をする人と、それと真逆の立場をとる人がいるはずだ。ただし私の眼には似たもののように映る。
しかしもう一つの問題はより本質的と思われる。私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でも把握していない。単に時々記憶がなくなる、一人でいても声が聞こえる、という体験でしかなく、時々異なる話し方や記憶を持つ人としてふるまうということを、他人に指摘されてわかる。そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。どうしてそのような人たちが症状を「アピール」していると言えるのだろうか?解説者の先生の持つDIDはこのように、かなり深刻な誤解や誤謬に満ちている。そして私にはそれが単なる学問上の立場の違いとは思えない。おそらく深い偏見や差別心に根差しているような気がする。これはもう、そのように感じられるものだ。理屈ではないのかもしれない。
人は差別心を多く持つ。私も自分が差別的な傾向を持つことを自覚する。「□□の人たちはちょっと…」の○○の中に該当する人たちが私にもいる。そして多くに人たちがDIDの患者さんたちを○○の彼なりのバージョンに入れてしまっているように感じる。残念なことである。
ただしこの問題を複雑にしている問題があることを私は心得ているつもりである。一つは解離に興味を持ち、「解離になりたい」という一部の方々の存在である。私自身は実は会ったことがないのであるが、解離に興味を持ち、そのような症状を持ってみたいという願望や空想を持つ人は少なからずいるということを、患者さんたちから聞くことがある。私は「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうではない人のままのはずだ。しかしそのような人たちの存在が、実際の解離を持つ人たちの信憑性を減じることにつながるとしたら、それも非常に困った問題であると考える。
もう一つは解離の患者さんの持つ、説得に対する受け身性である。あるDIDの患者さんはこういった。「私は時々、自分が人格のふりをしているのではないか、自分は甘えではないかと心配になるのです。」しかし私は彼女の主治医として、その人格部分の出現の仕方が決して「演技」ではないことがわかっているつもりである。ただ自責の念が強く、後ろめたさにとらわれやすい彼女たちが、「解離否認症候群」にかかってしまうとしたら…。それは解離否認派の臨床家を援護してしまうことになりかねない。これは嘆息すべき事態である。