2015年3月8日日曜日

解釈(6)、治療者の心性(6)


<解釈>
・・・そして解釈以外の言葉を発しないということが、改めていかに非現実的な提言かもわかるのである。
ここで少し頭を絞ってみよう。たとえば「あなたの中には幼少時に父親から厳しく打擲された記憶があり、それが恨みとなって残っているのでしょう。」という介入を考える。これはまさしくgenetic な解釈ということになり、分析的、と言える。しかし治療者がここまで言う際にはしっかりした根拠がなくてはならない。根拠なしにこんなことを言われてはたまらないではないか。ところがおそらく確信を持てるほどに治療者は患者の無意識内容を知ることなどできない。そしてたとえそれを何らかの形で知り得たとしても、それを患者に直接伝えることの弊害については、なにしろフロイトがすでにその技法論で述べているほどである。
だから解釈により無意識内容を伝える作業は、間接的に、つまり仮説的に、ないしは直面化や明確化の形をとれるような時期まで待って提示される必然性がある。仮説的に、とは「…それが恨みとなって残っていることはないでしょうか?」と疑問形の形で投げかけ、その際患者の方に論駁の余地を十分与えるのである。あるいは「直面化や明確化の形をとれるようになるまで待つ」とは、たとえば患者が父親から受けた身体的な暴力について語る機会があり、あたかもそのことを忘れているかのような患者に対して「そういえば、この間小さい頃のお父さんとのかかわりについてお聞きしましたが、その頃の感情が影響しているという可能性はありますか?」という問いかけとなるだろう。
フロイトも言った「内容解釈の前に防衛解釈を」という方便も、結局は似たような路線を示す。「なぜかイライラする、と先ほどおっしゃいましたが、その理由はご自分でもある程度お分かりになる部分はないのでしょうか?」
  
<治療者の心性>
・・・なぜなら他者への憎しみは、他者への期待が裏切られたことによるものが圧倒的に多く、他者に裏切られるとは、「他人は~だろう」と「わかって」しまうことに発するからだ。他人をわからないとは、その他人に夢は抱いても、期待はしないことである

この考え方がメンタライゼーションの理念とも結びつくことは容易に理解できるであろう。要するに患者さんのメンタライゼーションの能力を育てることが治療の一つの方向性となるのである。
しかしこう考えるとたちまち悩ましい問題が出てくる。これはたとえば愛着理論や発達理論とはそのままつながるような理論なのだが、果たして精神分析なのだろうか?実はこれは、メンタライゼーションの話を聞きながら最初から疑問に思っていたことだ。「患者が自らの無意識を知ること」と「患者が他者の主観を知ること」とはつながるのだろうか?もう「精神分析」以外の呼び方を考える方がいいのではないか?私はこの種の疑問は多くの関係精神分析学者が一度は考えたことではないかと思う。