2015年3月7日土曜日

解釈(5)、治療者の心性(5)


<解釈>ここで少し原点に返ってみる。治療状況を想定しよう。「私は父親の話を聞いているとなぜかとてもイライラしてきます。他人の話なら少しは我慢して聞けるのに、父親だとだめなんです。私は親不孝な娘だと感じます。」これを聞いて治療者の頭には様々な考えがよぎるとしよう。ちょっとシミュレーションしていくつか挙げてみる。「その気持ちわかる。」「家族って、特にそういうところがあるよね。」「後ろめたさを感じる必要はないのでは?」「母親の時はどうなんだろう、父親ほどではないのだろうか?」「父親に関してイライラするのはほかにどのような機会があるのだろうか?」「父親に対する後ろめたさはどこからくるのだろう?」「幼少時の父親との関係はどうだったろう?」「父親の話の特にどのような内容にイライラするのだろう?」あるいは「本当に親不孝な娘だな。」「たまに会うだけのはずなのに、どうして我慢をして聞いていられないのだろうか?」という反応かもしれない。こう書いていくといくらでも、治療者として聞く側の反応としてはあり得るだろう。その中で「解釈」ないしは「解釈的」とはどのような介入だろうか?これは決して簡単な問いではないことがわかる。そして解釈以外の言葉を発しないということが、改めていかに非現実的な提言かもわかるのである。
<治療者の心性>

ベンジャミンの提言をひとことで言えばこうだ。
「相手をわかる、とは相手は分からないということをわかることだ。」
 私たちはしばしば自分が本当は何を求め、何を考えているかがわからなくなることがある。でもおそらく「自分がわからない」は多くの人にとって「自分とは?」について考えていくうちに入り込む迷路のようなものである。普通はそれであまり悩むことはないし、悩むとしたらそれはおそらく深刻な問題の存在を示している。ともかくも、他人は実は「自分がわからない」こと以上にわからない存在なのだ。わかっていると感じているとしたら、それは自分がそう思い込んでいるにすぎない。この「他人がわからない」ことを実感できるためには、自分がわからないことを受け入れ、それに動揺しなくなることが前提なのであろう。そのうえで「他人がわからない」ことに動揺することなく、自然に受け止めることが出来るとしたら、それはその人と高い次元でかかわっていることなのだ。ここで高い次元とは、その他人とのかかわりで心をかき乱されることなく、win-win の状況を保つことが出来るという意味である。平和共存できる、ということだ。なぜなら他者への憎しみは、他者への期待が裏切られたことによるものが圧倒的に多く、他者に裏切られるとは、「他人は~だろう」と「わかって」しまうことに発するからだ。他人をわからないとは、その他人に夢は抱いても、期待はしないことである。