<解釈>
・・・「患者に伝えることが患者の利益につながるもの」には明らかな情報伝達や教示が含まれ出してしまうからだ。
ではどうして教示がいけないのだろうか?分析家は言うはずだ。「それは患者さんが自分で考える力や機会を奪ってしまうからです。」「分析は患者さんが自分で自分を発見する手助けをすることです。外から助け舟を出すことではありません。」Lewis
Aron が、精神分析における弁証法を、自律性
autonomyと関係性
relatedness の間のバランス、ないしは自己確立
self-definition と依存
dependency の間のバランスだとした時、まさにこれを言っていることになる。でも考えてみよう。私たちの日常は、ほかの情報を得たり、教示を受けたり、叱責されたり、ということの連続と言っていい。私たちはそれを特別「甘やかし」とは受け取らないだろう。むしろ私たちは外部からの情報には「聞く耳を持たない」のである。ただし精神分析の方法論が基本的に「自学自習」(京大みたいだな)にあるというのは分かる。それは方針としてありだ。数学だって基本的には「答えをすぐに見ないでまず思考力を身につけよ」という方針はそれなりにわかる。問題は自分で考えることを助ける精神分析においても、それ以外の要素がたくさん混じることは十分ありえ、それを「解釈以外の要素だ!」と言って排除することがかえって話をややこしくするということだ。特に分析といえども患者のwell-being
を究極的に目指しているとすればなおさらだ。そしてその上にあの悩ましいジレンマがある。すなわち解釈の定義である「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容や在り方について了解し,それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明」って、本当に教示とは対極的なのだろうか?「あなたの夢に出てくる○○は無意識にある××を象徴しています」は、本当にその人が自分で考える力を育てるのだろうか?これは悩ましい。言いたいこと言っているな。
<治療者の心性>
・・・この事情をさすが、ここには治療者=オーソリティ、患者=服従者、という図式を反転する可能性を持つのである。
この平等主義、(米国の)民主党寄りの立場があるこそ、これは外傷理論やフェミニズムを受け入れる素地になる。フェミニズムに関していえば、フロイト理論の持つ男根中心主義phallocentrism 的な考え方へのアンチテーゼがあるからこそ、そちらからの支持も取り付けることになる。何しろ米国などや日本の現状を見ればわかるとおり、セラピストの大半は女性である。方向としてはフェミニズムを取り入れない限り、精神分析の将来性はないであろう。
この平等主義はしかし、「人類はみな平和」的な甘ったるいメッセージよりはもう少し筋が通っている。それは人間の心の在り方のある種の方向性を示唆するものである。それはすなわち「他者と生きていくこと」の意味、もう少し具体的に言えば「他者を理解すること」の意味を追及することにかかわってくる。メンタライゼーションの動きやベンジャミンの「主体性」への考えにそれは表れているであろう。