2015年3月5日木曜日

解釈(3)、治療者の心性(3)

<解釈>
そもそも解釈とはなんだろう?
「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容や在り方について了解し,それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明。」でもこれは実は微妙な問題を最初から含んでいる。特にその示唆との関連において。というのもこの解釈というかかわりは、かなり積極的で場合によっては教示的で認知療法的で、何よりも「示唆的」である可能性が高いのだ。そう感じるのは私だけ、とも思えない。もちろん無意識内容を伝えることと暗示、示唆とは建前上大きな差がある。前者は「患者がすでに知っている」ことであり、後者は患者の頭に「外部から植えつけられる plant」ことだ。前者は患者が心のあるレベルで知っていることであるから、受け身的に教えられたこととは違う、というわけだろう。だが果たしてそうだろうか?はっきり言わせてもらえば、フロイトがこの解釈と示唆を峻別した瞬間に組み込まれたbuilt-inこの矛盾点が、それ以降の精神分析においてずっとついて回っているわけだ。
 レベルが低くて申し訳ないが、一つの例を挙げさせてもらう。もしあなたの背中に文字が書いてあり、あなたには見えないとしよう。治療者はあなたの背後に回ることが出来るので、その文字を読むことが出来る。そしてそれを伝えるとしよう。これは「解釈的」なのだろうか?それとも「示唆的」なのだろうか?この質問が意味を持つとすれば、背中に書かれたものはあなたの内側のものなのか外部のものなのかが微妙な問題である点だ。比喩的に言えば、たとえば本人が気が付いていないけれど、手を伸ばせばすぐにわかるようなことを治療者が伝えることは、分析的なのだろうか、ということになる。すると分析的にはこういう答えになるだろう。そのことを本人が実は心のあるレベルで知っていたのであれば、それを伝えることは解釈であり、問題がない。そうでなければ示唆に相当してしまう。
ここで私の立場は次のようなものである。「そんなのどっちでもいいじゃないか。本人の役に立つのであれば伝えればいいのではないか?」ただしこのように開き直ってしまうことで、その治療者はますます分析的な立場から遠ざかる可能性を帯びてくる。どこからかは明確ではないものの、「患者に伝えることが患者の利益につながるもの」には明らかな情報伝達や教示が含まれ出してしまうからだ。
<治療者の心性>

治療者のバランス感覚と共に考えなくてはならないのは、治療者の持つべき平等主義 egalitarianism である。従来の一者心理学的な立場にはきわめて上から目線的patronizing な色彩が濃かった。患者は「知らざる者」治療者は「知る者」である。知る立場にある治療者は一段高い立場から患者を観察し、そこで見えたものを解釈として患者に与える。ところが関係精神分析においては、治療場面において生起するものは、あくまでも治療者と患者の合作である。患者の治療者への怒りも、治療者の患者への愛着も、いずれも両者の影響により生じ、いずれかの心性や病理が一義的に表現されたものではない。Hoffman が、「患者の自由連想は治療者の無意識の解釈としての意味を持つ」という時、この事情をさすが、ここには治療者=オーソリティ、患者=服従者、という図式を反転する可能性を持つのである。