2015年3月4日水曜日

解釈(2)、治療者の心性(2)

しかし、ロシアという国は・・・・。

<解釈>
実際に分析的なかかわりを行うと明らかなように、治療者が解釈以外のかかわりを持たないということは事実上ありえない。対面した際のあいさつや頷き、治療構造の設定に関する打ち合わせや連絡等を含め、現実の治療者との関わりの場面は常に生じる可能性があり、それが治療関係に及ぼす影響を排除することは出来ない。そこで示唆的なアプローチと排他的でない解釈の意義を捉えた場合、その治療的な価値は依然として高いと言えよう。
<治療者の心性>
分析家は様々な事柄にバランスを考えつつ治療を進めることになる。アロンはそれを特に自律性 autonomyと関係性 relatedness の間のバランス、ないしは自己確立 self-definition と依存 dependency の間の弁証法だと言っている。ではそもそもバランスを取るとはどういうことか。何かセラピストは常に両方のインプットを測りながら、厳密に計測を行っている薬剤師か何かのイメージを持たれるかもしれない。ホフマンの議論にも山ほど弁証法の話が出てくるが、同様の印象を持たれるかもしれない。
関係性理論におけるバランスとして、分かりやすく「治療者が治療構造を遵守する」方針と、「治療者が自発性を発揮する」方針とのそれに還元して考えてみよう。(これがどうして自律性 VS 関係性、ないしは自己確立 VS 依存と関係するかについては解説が必要かもしれない。治療構造をする方向は規範の内在化、自立、自己の力による学習、自制 self-discipline を意味する。)

治療構造をどうするかという問題は、たとえば患者がセッションの終了時に新たな話題を持ち出すという事態にどう対処するか、といういわゆる限界領域 liminal space の問題に顕著に表れ、そこでは治療者が微妙なさじ加減を要求されていることになる。ただしここで要求されているのはそれほど高度な知的作業なのであろうか? 考えてみれば私たちが生活している空間はことごとく liminal space であるといえる。つまり私たちは各瞬間に過去の繰り返しや不安の回避行動と、自発的かつ衝動的な行動とのバランスを生きている。治療者のそれが通常の日常生活における私たちのそれと異なるのは、治療者が自らの感情をチェックし、それが無反省に行動化されていないかをチェックすることであろう。治療構造に関しては主として以下の点であろう。自分は治療構造を逸脱することを恐れるあまり、患者の利益を最優先していないのではないか。自分は患者を助けたい一心で、あるいは自分の自己愛的な満足のために、あるいは患者にさられることへの恐れから、必要以上に治療構造逸脱しているのではないか・・・・。言うまでもないことだが、前者は治療構造を逸脱する方向へ、後者はそれを遵守する方向へかじ取りすることになる。これが結果的にバランスを保つことである。ボートを漕ぐことを考えればわかるとおり、バランスを取るとは、その瞬間その瞬間に目標をそれるボートの舳先を正すことなのだ。