2015年3月14日土曜日

15年前に「現実」について書いたもの(4)

ともかくも、私はこの論文で、現実は対象的objectiveであり、主観的subjectiveであるという二重の性質を持つ、と主張している。何かを感じるもととなるソースは外にあるという意味での対象性objective.でもそれを切り取るのは主観であるという意味でsubjective 。ここで重要なのは、主観的であるのは、主観的であることは対象的であるということを少しも減じないということ。何しろ患者にとって主観的である治療者は自分の外にあるから。そして同じことは治療者にとっての主観的である患者についてもいえるから。
それから私は症例を出しているのだが、ほとんど自分では忘れているようなエピソードが掲げられている。そこまでで10ページ。そこから20ページに及ぶ考察が続いている。
簡単にビニェットを紹介する。そこ頃私と分析的な関係にあった30歳代の女性の患者さんシンディが、元夫への怒りを語った。「彼が私にしたことを思うと、憎らしくてたまらなくなります。電話をして怒りをぶちまけたいわ」という彼女に、私は「それはどうかなあ」という反応をした。私にはどうもシンディの反応がわからない。というのも、彼女が怒っているという元夫の言動というのは、私の観点からすれば、それほどひどいこととも思えなかったからだ。だからシンディがそれに対して怒りの電話をすることは、ちょっと衝動的すぎるし、配慮が足りないと考えたからだ。もちろんそう明言はしなかったが。
 次の日のセッションで、シンディはこういう。「昨日話していた通り、電話をしたわ。言いたいことを言ったの。」それを聞いて、「え、電話をしたのですか・・・・?」私の反応を聞いたシンディは、「あれ、先生は私が電話をしたことはよくなかった、という口ぶりですねえ」といった。シンディは私のことを、いつも自分を否定する母親のように「懲罰的」に感じたらしい。そこでセッションは終了になる。これだけである。