2015年3月15日日曜日

15年前に「現実」について書いたもの(5)


精神分析における現実を再定義する
現実とは、外にあって、直接それを正確に知ることなどできない。何らかの感覚印象を与えるものだ。それは患者にとっても治療者にとっても同じだ、という。それはカント哲学で言う「もの自体」、ビヨンのいうKに相当する。ビニエットの中ではシンディが元夫に怒りのこもった電話をした、と記したが、それは私(治療者)にとっては現実だった。それはそれなりのインパクトを持って私に伝わってきたからである。そしてその話を聞いた私の反応が、拒絶的な印象を与えたというのはシンディにとっての現実であった。
 ここで注意していただきたいのは、私が用いる現実はその内容に対する言及というよりは、その情緒的なインパクトに注目したものであるということだ。そしてそれゆえに一方にとっての現実は、他方にとっての現実ともなる。私の失望はシンディにとっての現実となり、シンディが私に否定されたと感じたという現実は、そのような印象を与えてしまったという私の現実ともなった。そしてそのことに付いて話し合うことで、その間主観的な世界においてこれらの現実が共有されて「共同の現実」を構成するのである。
このような現実の捉え方は、精神分析的な関係の、転移的な側面と現実的な側面という二分法(Greenson, 1969)の重要性を減じることになる。この二分法は、分析家が優先的に把握することのできる現実を歪めた形での転移、というPositivistic は世界観に立ったものである。しかし私がこの論文で論じている現実は、転移の内側でも外側でもありうる。というよりは転移の中での歪められた治療者のイメージはそれ自体がもう一つの現実なのである。私のことを母親のような否定的な人物と捉えたシンディの体験は、それが現実の私の歪曲されたイメージかどうかにかかわらず、重要な現実というわけだ。
このような現実の概念の有用なことは、新たな現実が体験された場合は、それがそれ以前の現実にとってかわるのではなく、それに追加される形で更新されるという点である。Reality is only added to reality. (シンディが最初は私を懲罰的な人と体験したのが現実とする。次に彼女は私をそれほど懲罰的ではない優しい人と体験しなおしたとする。すると現実は、「シンディは最初は私を懲罰的と見なし、次にそれほどそうとは感じなくなった」となるわけである。)

ここで私が強調しているのは、現実はunfalsifiable 無謬的であるということ、そして現実は新たな現実へと追加される、ということだ。現実は無謬的とは、現実にはどこにも「正確」で「正しい」ものがないだけに、無謬的だということだ。そして主観的な現実はそれゆえにまさに現実になるということ。なぜならシンディが私を「懲罰的」と感じたという事実が重要だからだ。