2015年2月11日水曜日

「ゆるい序章」の一部を書き換えた

 解離が生じる仕組みその1 人の意図は自分の意図?


ここで解離性障害が生じる仕組みにもついて考えてみる。その一つの機序として考えられるのは、人の意図や願望や感情が、自分のものと混同されるような状況であると考えられる。
 自分自身を思い出してみれば、子供のころ親に言われることにさほど疑問を持たなかった。親の意図は自分の意図。これは実は子供の適応にとって重要なことなのであろう。しかしこれは健全な状況においてのみ生じているわけではない。虐待やトラウマや、それに関連した解離の問題も、またこのテーマに沿って理解すべき問題と思うからだ。親に叩かれること、命令されること、あるいは無視され、生きている意味を奪われるような言葉を浴びせられること。それらはおそらく無反省に受け入れられる。ただそれに伴う怒りや不満は実は存在する。本来ないはずの怒りや不満が心の別のところで生じる。
 これが解離のはじまり方の一つだと説明するためには、もう一つのピースが必要になる。どうして心の中に、親に対する怒りや不満が、心の別の部位で生まれるのだろうか?もともと子供の心には生じるはずのないそれらの感情が? 私たちはここで仮説的にならざるを得ないだろう。私の考えはこうである。子供の適応能力はおそらく私たちが考える以上のものである。その中には様々な思考や情動のパターンが存在するのであろう。それはドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には辛い仕事を押し付けられて不満に思い、相手を恨む人の話も出てくるだろう。子供のミラーニューロンはそれをわがことのようにして体験する。子供の心には、侵襲や迫害に対する正常な心の反応も、パターンとしては成立するはずだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れ、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している。子供が正常な感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そうなのである。後は両者を解離する機能が人より優れているとしたら、それらは別々に成立し、隔離されたままで進行していくのであろう。そこから先はまさにブラックボックスである。実に不思議であり得ないことが起きるのだ。解離の臨床をする人間に必要なのは、この不思議な現象を説明できないことに耐える能力なのだろう。