2015年2月10日火曜日

これも「ゆるい序章」に追加だ

「解離トラウマ因説」はもう古い?
私の中では、解離をトラウマにより生じるものとする見方は、すでに過去のものになりつつある。「解離はトラウマから生じる」は古い、とは言い切れないにしてもそれなりにドグマを含みうる。解離がある種の心のインパクトにより生じることは確かなのだが、その議論をもう少し精緻に、丁寧に行わなければならない。さもないと、解離性の人の生活史にはたいてい幼児期の性的虐待が潜んでいる、という類の議論ばかりが先行してしまう。
 わかりやすく言う。解離とは、体験がそれを受け入れる人のキャパを超えた時に生じる現象だ。その体験が世にいうトラウマ体験に合致する場合もあれば、そうでない場合もある。
ある患者さんは、幼児期に悪戯をして怒られると、肢をもって逆さ吊りにされたという。それが二階のベランダからだったという。その時に意識が遠のいたという。別の患者さんは幼少時にある悪癖を持っていた。そのためにそれに関係する体の一部を傷つける、という脅しをかなり具体的に受けたそうだ。そしてその時に意識が遠のくのを感じた。さらに別の患者さんは両親の間の激しい口論や身体的な暴力を目の当たりにした。
 これらの例では、叱った親の側からは、子供はぼんやりしたり、おとなしくなったり、悪癖をやめたりしたのであろう。親の場合にはそれで子供に言うことを聞かせたので問題はなかったことになる。「子供が言うことを聞かないのは、厳しくしつけないからだ(いうことを聞くまで厳しく叱ったり脅したりすればいいのだ)」という比較的単純なロジックにつながるのであろう。そして一部の子供はそれでメッセージは伝わったのである。
昨日は季節柄、節分で幼稚園に鬼が訪れた様子をテレビで放映していた。地元の大人が扮する優しき鬼たちは、それでも十分に迫力がある。鬼の面はすごい形相であり、それをつけた大人はまさに怪物である。幼稚園の中には大泣きしながら「もう悪いことはしません…」とつぶやき続ける子も続出だ。
テレビではこれを一種の微笑ましい一コマとして映し出している。そういえば東北のナマハゲに「襲われ」て泣き叫ぶ子供に対する視点と同じだ。でも子供の方はどうだろう。子供は厳しつしつけるべし、という「常識」のもとでキャパを超えた体験を強いられるというのは、子供に不通に起きることなのだ。そしてそれは「トラウマ」と呼ぶにはあまりに不通に、一つの風習として行われてしまうことなのだ。