3.解離に基づく非力動的、離散的な精神分析理論
現代的な脳科学の理解に基づき心の理論を考えた場合に浮かび上がってくるのが、解離の機制を中心に据えた精神分析理論である。それを私は「非力動的、離散的な分析理論」と呼ぶことにする。この「非力動的」という表現は、抑圧の機制に基づいた精神分析理論(力動的な分析理論)との区別を明確にするためである。また離散的(不連続的)、とは心のあり方が本来はまとまりを欠き、ばらばらに生じる傾向にあるという性質を強調している。
フロイトの心の捉え方は、意識内容と無意識内容を、抑圧のバリアーを介した一つの力動的な連続体と見なすというものであった。そこでは無意識の内容は意識化することが苦痛であるために抑圧されたものであり、それは症状や機知、言い間違え、夢の顕在内容などを通して、意識野に表れると考える。そしてその前提に立ち自由連想法や夢の報告に解釈を与えることで、無意識内容を明らかにするという治療的な手続きが考えられたのである。
フロイトの心の捉え方は、意識内容と無意識内容を、抑圧のバリアーを介した一つの力動的な連続体と見なすというものであった。そこでは無意識の内容は意識化することが苦痛であるために抑圧されたものであり、それは症状や機知、言い間違え、夢の顕在内容などを通して、意識野に表れると考える。そしてその前提に立ち自由連想法や夢の報告に解釈を与えることで、無意識内容を明らかにするという治療的な手続きが考えられたのである。
しかし私たちがこれまでに見た脳の機能は、フロイトの見解とは相当異なる無意識の在り方を示している。私たちの脳の主要な働きは情報処理であり、その大部分は無意識的に行われるのであった。また心の在り方は扁桃核や報酬系の働きに大きく規定されるものであるという事情も見た。さらには私たちの意識的な意思決定が、実は無意識に基づく言動の後追いであるという理論も紹介した。
その結果として人間の言動はかなり予想困難で一見恣意的なものとなる。それは抑圧という機制により無意識レベルでその根拠を与えられているとは限らず、無意識において独自に生じ、意識野とは本来は隔絶(解離)された独自の振る舞いをする可能性がある。
その結果として人間の言動はかなり予想困難で一見恣意的なものとなる。それは抑圧という機制により無意識レベルでその根拠を与えられているとは限らず、無意識において独自に生じ、意識野とは本来は隔絶(解離)された独自の振る舞いをする可能性がある。
以上の説明をもう少しわかりやすくするために、あるファンタジーA、Bを想定してみよう。自由連想においてAが自然と意識野に生まれ、それが語られたとする。またそれに続いてBが自然と想起されたが、こちらはその瞬間に不快感が生じたために、患者はそれを心の中で打ち消し、また語らない選択をしたとしよう。よくある自由連想の一コマを切り取ったものにすぎない。
古典的な精神分析モデルにおいてはこのプロセスをどう考えるだろうか? ファンタジーAが語られ、Bが語られないことについての無意識的な意味を理解しようとするであろう。AやBが表現しているのは、どのような無意識内容なのかが問題となる。またAとBとの無意識レベルでの関連性についても大きな関心を向けることになる。
しかし現代的な脳科学に従った心のあり方の理解は、それらの試みに従来ほどは意味を見出さないことになる。まずAが何かからの連想により生じたのでもない限り、それが生まれた理由は特定出来ないことがあまりに多い。そこに様々な無意識的な要素が介在するためである。そしてそれを語ることがなぜ報酬刺激となるかについても、不明であろう。報酬系が何により刺激されるかについてもあまりに多くの個人差があり、それ自体が偶発的な要素により左右されるからだ。
またファンタジーBに関しても同様である。なぜそれが打ち消されたり、語られなかったりしたかについてもさまざまなものが考えられる。Bの想起が扁桃核への刺激となった可能性があるが、それは何らかのトラウマを思い起こさせるような刺激に由来するのかもしれないし、また幼いころから嫌悪すべき何らかの刺激との関連で想起を回避され続けたものかもしれない。これについてもその無意識的な動機を知ることは多くの場合に非常に困難となる。
古典的な精神分析モデルにおいてはこのプロセスをどう考えるだろうか? ファンタジーAが語られ、Bが語られないことについての無意識的な意味を理解しようとするであろう。AやBが表現しているのは、どのような無意識内容なのかが問題となる。またAとBとの無意識レベルでの関連性についても大きな関心を向けることになる。
しかし現代的な脳科学に従った心のあり方の理解は、それらの試みに従来ほどは意味を見出さないことになる。まずAが何かからの連想により生じたのでもない限り、それが生まれた理由は特定出来ないことがあまりに多い。そこに様々な無意識的な要素が介在するためである。そしてそれを語ることがなぜ報酬刺激となるかについても、不明であろう。報酬系が何により刺激されるかについてもあまりに多くの個人差があり、それ自体が偶発的な要素により左右されるからだ。
またファンタジーBに関しても同様である。なぜそれが打ち消されたり、語られなかったりしたかについてもさまざまなものが考えられる。Bの想起が扁桃核への刺激となった可能性があるが、それは何らかのトラウマを思い起こさせるような刺激に由来するのかもしれないし、また幼いころから嫌悪すべき何らかの刺激との関連で想起を回避され続けたものかもしれない。これについてもその無意識的な動機を知ることは多くの場合に非常に困難となる。
さらにはファンタジーAとBの関係性はどうだろうか?両者には関連性があるかもしれないし、別個のものかもしれない。脳ではさまざまな部位で同時並行的な情報処理が行われる。そしてAとBとの間に連続性や因果関係が常に存在するとは限らないのである。
心は常に首尾一貫した法則にしたがっているわけでは決してない。無意識の働きは扁桃核や報酬系の影響を受け、その結果として意識内容と無意識内容は不連続的(「離散的」)で、両者に力関係を想定できない(非力動的)と考える方が現実に近い。無意識に生じる様々な動きの中で突出したものとなった時に、AやBのような形で意識に上る。そしてそれがさらにファンタジーや行動を生み出すことで、治療場面は理屈では説明できない様々な行動化やエナクトメントに満ち溢れることになる。
私の心が非力動的、離散的な在り方をする、という主張は以上のような根拠に基づくが、この意味での非力動的な心の在り方は、フロイトと同時代人のピエール・ジャネの頭にあった。ジャネの理論によれば、心は意識 conscience と下意識 subconscience に分かれる。意識は統合と創造に向けられた活動であり、下意識は過去を保存し再現する活動である。そして通常はこの二つは独立しつつ協調しているが、現在の体験を形作るのはあくまで前者である。そして解離状態については、統合と創造のほうが減弱している状態として説明する。この状態がヒステリーに相当し、そこでは「心理自動症 automatisme psychologique」が発揮されるのである。
このジャネの考えは、下意識を意識とは基本的に独立した自立性を持つものとして捉えている。しかしそれは過去の記憶に大きく規定され、それが意識活動と協調する形で創造的な活動が成立するというわけである。
精神分析において抑圧の理論と同時に、あるいはそれとは別に解離の概念を用いた理論家は、多かれ少なかれそのような非力動的、離散的な考えに親和性を持っていたということができるであろう。それらはフェアバーンやウィニコット、そしてサリバンなどである。
そのなかでサリバンは「自分でない自分 Not me」 という表現で解離された自己の在り方を表現し、理論化した点で特筆に値する。彼の「よい自分 good me」,「悪い自分 bad me」そしてこの「自分でない自分」という概念化にそれが表れている。最初の二つはおそらく多くの人が日常的に体験しているであろう。自分という存在に対する意識が、二つの対照的な自己イメージに分極化するという体験は、程度の差こそあれ、私たちの多くにとってなじみ深いはずである。自分の力を順当に発揮でき、「自分は結構やれるじゃないか?」と思えるときのセルフイメージ(「よい自分」)と「自分って全然だめだな」と思う時のイメージ(「悪い自分」)とは、時には互いが強めあう形で体験されることもある。
それに対して「自分でない自分」は、むしろ非日常的でしばしば病的な形で現れる。その時の自分があたかも別の世界に逃げ込んでいるような状態、苦痛や恐怖や屈辱のために心をマヒさせるような形でしか、その体験をやり過ごす事が出来ないような状況において出現するのだ。
この「自分でない自分」は「深刻な悪夢や精神病的な状態でしか直接体験できず、解離状態としてしか観察されない」とサリバンは考えた。この時の体験は、それが深刻な苦痛が伴う為に決して学習されず、またより原始的な心性のレベル(プロトタキシック、パラタキシック)でしか体験されないとしたのである。
現在では、このサリバンの「自分でない自分」の概念は、トラウマや解離の文脈で再評価されるようになってきている。精神医学、心理学においてトラウマによる心の病理が再認識され、臨床家の注意が向けられるようになったのはここ30年ほどのことである。30年というと非常に長いという印象を与えるかもしれないが、その中で精神医学的、精神分析な考え方が徐々に変革を迫られていることを考えると、その動きは激動に近い。
本稿の1.では「患者の声を受け止めよ」というスローガンめいたことを書いた。フロイト以後の脳科学の発展が示すことは、従来周囲の人々が「気のせいではないか?」「そのように言うことで他人を操作しようとしているのではないか?」と勘繰ったような患者の証言が、はるかに信じるに足るという根拠を与えてくれていた。そしてそれはトラウマについて語る患者の話に真摯に耳を傾けることにも通じるのである。
この事情は解離の理論についてもそのまま当てはまる。「自分でない自分」に由来する体験はしばしば荒唐無稽で、一見信憑性を欠く。心的苦痛を伴う体験を思い出せない、という解離性健忘における体験はその一つであろう。
ところで現代の精神分析理論においては、解離の議論はすでに先鞭がつけられている。フィリップ・ブロンバーク、ドンネル・スターンなどにより解離の概念を主軸にした精神分析理論が提唱されている。ただし歴史的に見て、精神分析の世界では解離は分が悪かった。それはフロイトが解離という現象自体を信用せず、またジャネとのライバル意識から解離を抑圧の一種に過ぎないという、いわば解離現象を矮小化したような見方に固執してきたという歴史がある。それが今大きく変わろうとしている。
治療論に向けて・・・あるケースの例
離散的、非力動的な心の在り方を受け入れた場合の私たちの治療はどのように変わるのか。ここでは治療論の詳細を論じる余裕はないため、ひとつの仮想的なケースを上げ、非力動的、離散的な分析理論に基づいた治療について考えたい。
ある中年の女性が、長年連れ添ったパートナーとの関係について思いをめぐらしているとしよう。彼女の心の中では、「パートナーと別れたい」という気持ちと「やはり一緒に居たい」という二つの異なる気持ちが訪れ、それに自らが当惑している。この場合、ひとつの捉え方は、一方が他方の防衛としての意味を考えることである。すなわち「別れたい」という気持ちがあるからこそ「一緒に居たい」という気持ちが湧くという意味だ。それは「別れたい」という気持ちが不安を呼び起こすからかもしれないし、後ろめたさや罪悪感を招くからかもしれない。また「一緒に居たい」という気持ちが「別れたい」という気持ちを生むことにある。それは例えば一緒に居たいという願望が最終的に相手に裏切られることへの恐怖を生み、それを防衛しようとしているのかもしれない。またそのような願望を持つ自分を何らかの理由で許せないからかもしれない。
いずれにせよ力動的な考え方は、現在意識化されている願望の裏を同時に理解することでその真の意味を理解することを目指すだろう。
他方離散的な心のとらえ方は、そのような二つの矛盾する思考や願望の力動的な関係の可能性を否定はしないが、それ以外の関係にも開かれている。人の心には様々な相矛盾する内容が存在し、それが解離されている場合には、そのお互いを認識し合えないことがある。パートナーと普段は「一緒に居たい」と感じていても、何らかの理由で「別れたい」という気持ちが生まれることもある。その理由は不明であることも少なくない。相手に言われた一言、しぐさ、失望、あるいはふと生まれた嫌悪感が関連しているかもしれないし、相手の振る舞いが昔のトラウマを呼び起こしたのかもしれない。その理由づけや解釈は往々にして早計であったり、的外れであったりする。治療者はまずは患者の心に生まれる様々な思考や願望の存在を認め、受け入れ、必要に応じて患者に治療者がどう受け取ったかを返していく。その意味で治療の中核は、患者の中に起きている解離した心的内容どうしの結びつきをより豊かなものにすることに貢献すること、といえるかもしれない。患者の頭の中のひとつの思考は、矛盾するさまざまな思考と共存しうる。心の自然な姿、左脳による理由付けを経る前のあり方とは、本来そういうものだ。治療者は臆断をできるだけ排しつつ、それらの心的内容の結びつきを深めることに貢献する。しかしその作業は力動的な理解に基づく因果論的な関連を強いることにはつながらない。いくつかの矛盾した心を持つ一人の人間としてそのまま受け入れることを意味するのである。
ある中年の女性が、長年連れ添ったパートナーとの関係について思いをめぐらしているとしよう。彼女の心の中では、「パートナーと別れたい」という気持ちと「やはり一緒に居たい」という二つの異なる気持ちが訪れ、それに自らが当惑している。この場合、ひとつの捉え方は、一方が他方の防衛としての意味を考えることである。すなわち「別れたい」という気持ちがあるからこそ「一緒に居たい」という気持ちが湧くという意味だ。それは「別れたい」という気持ちが不安を呼び起こすからかもしれないし、後ろめたさや罪悪感を招くからかもしれない。また「一緒に居たい」という気持ちが「別れたい」という気持ちを生むことにある。それは例えば一緒に居たいという願望が最終的に相手に裏切られることへの恐怖を生み、それを防衛しようとしているのかもしれない。またそのような願望を持つ自分を何らかの理由で許せないからかもしれない。
いずれにせよ力動的な考え方は、現在意識化されている願望の裏を同時に理解することでその真の意味を理解することを目指すだろう。
他方離散的な心のとらえ方は、そのような二つの矛盾する思考や願望の力動的な関係の可能性を否定はしないが、それ以外の関係にも開かれている。人の心には様々な相矛盾する内容が存在し、それが解離されている場合には、そのお互いを認識し合えないことがある。パートナーと普段は「一緒に居たい」と感じていても、何らかの理由で「別れたい」という気持ちが生まれることもある。その理由は不明であることも少なくない。相手に言われた一言、しぐさ、失望、あるいはふと生まれた嫌悪感が関連しているかもしれないし、相手の振る舞いが昔のトラウマを呼び起こしたのかもしれない。その理由づけや解釈は往々にして早計であったり、的外れであったりする。治療者はまずは患者の心に生まれる様々な思考や願望の存在を認め、受け入れ、必要に応じて患者に治療者がどう受け取ったかを返していく。その意味で治療の中核は、患者の中に起きている解離した心的内容どうしの結びつきをより豊かなものにすることに貢献すること、といえるかもしれない。患者の頭の中のひとつの思考は、矛盾するさまざまな思考と共存しうる。心の自然な姿、左脳による理由付けを経る前のあり方とは、本来そういうものだ。治療者は臆断をできるだけ排しつつ、それらの心的内容の結びつきを深めることに貢献する。しかしその作業は力動的な理解に基づく因果論的な関連を強いることにはつながらない。いくつかの矛盾した心を持つ一人の人間としてそのまま受け入れることを意味するのである。
ここで解離している心的内容の間の結びつきを深める、という言い方をしたが、より脳科学的な表現をするならば、それは脳の中のネットワークの結びつきを深めると言い換えてもいい。脳とは巨大なネットワークである、という表現を本章では繰り返した。それらの中で疎遠になっていたり疎通性が悪かったりするネットワーク同士のシナプスを強化すること、それが治療の根底にあるといっていいだろう。またこれは精神分析的な用語でいえば、サリバンの理論に見られる「自分でない自分」を心の舞台に取り戻しすことであろう。「自分でない自分」はおそらく幼少時に心の主要部分とのつながりを放棄し、あるいは絶たれたいわば迷子のような部分である。その部分を救い出さなくてはならないのである。
同時におそらく私たちがよほど警戒しなくてはならないのは、私たちの持つ理由づけ、「解釈」至上主義の傾向である。もちろん解釈が「A≒B、すなわちAとBが関連している」という意味で用いられるのであれば、今述べた根拠から治療的な意味を持つであろう。(もちろんA≒Bが治療者の単なる思い付きだったり、患者が拒絶したりするなら、意味はないが。) そうではなくて、解釈が「A∵B、すなわちAはBだからだ」、という理由づけの文脈で用いられるとしたら、それは注意すべきであろう。フロイトが考えていた心の在り方は理論的で機械的なところがある。夢の象徴解釈などはそれの典型といえる。従来の精神分析理論はそのようなフロイトの世界観に由来するものだったのである。でも先ほど述べたように、脳の在り方は、離散的、そして非力動的である。
非力動的であることはしかし、私たちが精神分析を行う上で行っている患者との営みを大きく変えることを、事実上は意味はしないと私は信じる。私たちの提供する治療が、連結である限りは、そこにA,B間の因果関係や、さらに背後にあるトラウマとの関連性を探し求める作業を当然含みうる。私たちは力動出来であることを宣告されているようなものだ。特に精神分析という知的作業においてはそれは不可避的と言える。だからこそあえて「非力動的」であることを目指すことは、そのような治療者自身の心の性急さや知性化傾向に対する監視を怠るまいという戒めとなるのである。
非力動的であることはしかし、私たちが精神分析を行う上で行っている患者との営みを大きく変えることを、事実上は意味はしないと私は信じる。私たちの提供する治療が、連結である限りは、そこにA,B間の因果関係や、さらに背後にあるトラウマとの関連性を探し求める作業を当然含みうる。私たちは力動出来であることを宣告されているようなものだ。特に精神分析という知的作業においてはそれは不可避的と言える。だからこそあえて「非力動的」であることを目指すことは、そのような治療者自身の心の性急さや知性化傾向に対する監視を怠るまいという戒めとなるのである。
おわりに
「脳科学と精神分析」と題し、特に「解離に基づく非力動的、離散的な精神分析理論」というテーマを巡って昨年12月に発表した内容を文章にまとめた。当日に感じることが出来たのは、精神分析が新しい科学的な知見を取り入れて新た恣意ものへと生まれ変わる予感であった。従来の分析的な考え方になじんだ方々には多少なりとも混乱する内容かもしれないが、私はKIPPを精神分析の新しい可能性を探求する力にあふれる場としてとらえている。当日はその手ごたえを感じることが十分に出来たことを最後に記しておきたい。