2015年2月5日木曜日

恩師論 (14)


ええっと、どこまで行ったっけ?そう、もう最後に近付いているのだ。最後の部分はこうだった。
l  世代形成性generativity Erikson)との関係
l  自分が出会いの提供者になること
l  結論:恩師を求めるな。出会いを自ら内在化せよ。よき恩師になろうとするな。出会いを提供せよ。
このうち世代形成性を書き終わろうとしている。しかしこれは、次の「自分が出会いの提供者となること」、とつながっていく。要するに恩師について語るとき、自分の中の潜在的な「恩師」について考えなくてはならない。と言ってもこの潜在的な恩師とは、自分の中に内在化された恩師、という意味ではなく、自分が「恩師となる」ための素地や萌芽という意味である。
私は基本的には恩師的な要素と父親的な要素を重ねる傾向にあるので、世代形成性は私たちが父親になる年代には始まっているとみていい、と考えている。というより次の世代を育てるという姿勢や発想は、例えば長子であること、面倒を見るべき弟や妹を持つことを通して、実は幼少時から存在していておかしくない。それを意図的に、継続的に行うという機会がより多く人生の後半に訪れるということだけである。確かに学生時代に出会った先輩たちは同じ中、高生でも同時に父親的だった。でも同時にやんちゃで勝手で子供っぽかった。子安先輩(上述)も例外ではなかった。
 仏教の言葉で、往相と還相(げんそう)というのがあるらしい。私もよく知らないが。ネットで調べると、往相とは「仏になろうと精進していく道」だという。そして修業を積んで仏になったら、今度は、還相となり、 まだ仏になれいない人に手をさしのべて、一緒に仏になりましょうと働きかけるという。これまでの文脈でいえば、恩師的な要素を持つ人も、人生の前半では自分のことにより専念していい。ところが自分の地位を築き、仏になった後は(←意味の通じない文章!)むしろ後輩のことを考え、そのために力を費やすということだ。つまり恩師としての活動を行い、またそれに満足を覚えなくてはならない。

しかし、還相にある人間は仏である必要はない。出会いを提供できればいい。理想化されるべき対象である必要はないのだ。愛他性の塊である必要はない。時々後輩を導けばよい。ことさらよき師であろうと思うと、人間は必ず自分の自己愛に負けて、あるいは自分の寂しさに負けて相手を取り込み、支配しようとする。そうではなく、良き出会いを提供できた先輩は、もうそれで満足してさっさと相手に別れを告げなくてはならない(あるいはそのような覚悟を持たなくてはならない)のである。