2015年2月2日月曜日

恩師論 (11)


恩師の教えはパワハラと表裏一体である?

ある一般的な原則があるようだ。「人に影響力を及ぼす人は、同時に自己愛的で押しつけがましい。」もちろん一般論である。そう断ったうえで言えば、人の他人への影響力は、その人がどれだけ声が大きく、どれだけ自分の考えに確信を持ち、どれだけ他人にその考えを押し付けるかに多大に影響している。影響を与える人間は一般的に言えば、自己愛的な人間ということになる。この例外などあるだろうか?
もちろん素晴らしい理論を持ち、著作をあらわし、人間性にも優れているにもかかわらず、謙虚でつつましく、自己宣伝の全くない、そして自身のない人もいるだろう。影響力を及ぼすということにとって、自己愛的であることは必要条件ではない。ただしその控えめな人がもう少し自信を持ち、もう少し自己表現の機会を持ったならば、さらに大きな影響力を及ぼす可能性がある。その意味で人が影響力を持つことと自己愛的であることにはかなり密接な関係があるのだ。そしてそれはとりもなおさず、弟子との間にパワハラが生じやすい可能性をも表している。ある人が恩師として慕われる一方では、一部の人たちにとってはパワハラを与える存在でもある、という可能性は、十分あるのだ。
このことを出会いの文脈で考えよう。私は恩師とは往々にして理想化できる対象とはなりにくく、また全面的な理想化対象となる必要もない、という趣旨のことを述べた。理想化すべき対象を追い求めていると、日が暮れてしまう。そうではなく、自分にとって多くのものを与えてくれた人との「出会いのモーメント」があれば、それでいいという立場だ。その思い出を大切にすればいい。もっと言えば、ある出会いから多くのものを学び吸収するような自分の側の能力が大切だということになる。これは極端に言えばそこに相手からのまごころやこちらを育てたいという親心がなかったとしても、あるいは押しつけがましい自己愛的な人間でも、不足している分をこちらが補う(外挿する?) ような形で成長の糧とすることができるだろうということだ。少し書き過ぎだろうか?もう少し言葉を継げば、おそらくここで重要な意味を持つのが、その人の持っているレジリエンスなのだ。レジリエンスが高いと、ある体験を学びの機会として利用することができるのだ。

ところでこのことはまたレジリエンスが低かったり、運に恵まれなかったりする人の場合に、自己愛的な人間との間でパワハラやモラハラを受けてしまう可能性をも表している。もし自分が指導を受けるような相手との間に、ある程度の良い出会いがあり、また頻繁にパワハラめいたやり取りがあったらどうなるのだろうか? そしてそれが自分にとっての上司であったり、学問上の師であったりしたらどうだろうか? その人との縁が切れないがために、少しの恩恵と絶大なトラウマを体験することになりはしないか? 臨床を行っていると、そのようなケースにもまた出会うことになる。私は「出会い」などと悠長なことを書いたが、「その人との出会いを大事にし、理想化することをあきらめましょう」という教訓を生かせない状況にある人たちもたくさんいるだろう。それはそのような先輩、上司、教師との関係から逃れることができず、そのような人との運命共同体にある人たちもたくさんいるということだ。かくして恩師の教えはパワハラと表裏一体となりうる、というこの項目の表題につながる。