2015年2月7日土曜日

脳科学と精神分析(推敲)(1)


「脳科学と精神分析」と題したこの論考で私が論じたいのは、以下の3つのテーマである。

1.脳の活動の可視化によりどのように心の理解は深まったか?
2.ハードウェアとしての脳を知ることで無意識の在り方はどのように変わるか?
3.今後の精神分析に向けて ― 解離の概念と非力動的、離散的な心のモデル

このうち12は、3のための予備的な議論である。そこで紙数の制限もあり、この論考では12については簡略に済ませ、3についてより詳しく論じたい。

1.脳の活動の可視化によりどのように心の理解は深まったか?

フロイトが精神分析理論を提出してから一世紀以上が経った。その間に私たちは心の働きがどのように脳に反映されているのかを、視覚的に知ることが可能になった。それが私たちの心の理解を一歩も二歩も進めたのは確かであろう。それはどのような意味でだったのだろうか?
 私がまずあげたいのは、1860年代のフランスのポール・ブローカによる言語野の発見である。ブローカは生前頭部の外傷により言葉を失った人々の脳を解剖し、左前頭葉の後部(後のブローカ野)の病変を発見した。それにより言葉の機能と具体的な脳の部位との対応が明らかになったのである。しかしなぜかフロイトはそのブローカの業績に懐疑的であったとされる(Berker,1986)。そのフロイト自身は、脳や中枢神経が、神経細胞と神経線維により構成されていることを発見した。若きフロイトは1878年にはヤツメウナギの脊髄神経細胞の研究を行い、18791881年にはザリガニの神経節を研究して、ニューロン(神経細胞)の発見者の一人として貢献しているのである。ニューロンの存在という考えはフロイトを夢中にさせたらしい。彼はニューロンを構成要素とした中枢神経系を考え、それをもとに心の理論を打ち立てることを試みた。それが「科学的心理学草稿」(1895)であったことはよく知られる。
Berker, EA et al.:Translation of Broca’s Report Arch Neurolog. Vol. 43, 1986. 1965~1072 http://www.sfn.org/~/media/SfN/Documents/ClassicPapers/Language/broca.ashx
Freud, S (1895)Project for the scientific psychology. SE. Vol. I 小此木啓吾訳(1974):科学的心理学草稿,フロイト著作集7. 人文書院、京都

フロイト時代の脳科学の発展としては、脳波の発見が特筆されるべきであろう。ドイツの精神科医ハンス・ベルガーによる人間での脳波の存在が報告されたのは1929年であったから、まだフロイトが存命中ということになる。これにより脳の働きは非常に微弱な電気の活動として計測できることが明らかになった。程なくして癲癇は中枢神経系の疾病であり、その発作は、脳で起きている高電圧の同期化した活動であることが脳波により判明した。それまでヒステリーの一部と考えられ、詐病と見なされたり、差別や揶揄に対象となったりしていた患者の一部は、はじめて本来的に治療の対象であるとみなされるようになったのである。
 フロイトが脳波についてなんらかの言及をしたという話は聞かないが、もし十分な関心を向ける機会があったとしたら、おそらく彼が終生抱いていたリビドー論の一つの傍証と考えたのではなかっただろうか?フロイトは前述の「科学的心理学草稿」では、神経細胞をφとψという二種類に分け、それらの間をある種の「量」が行き来する様子を描いている。それをフロイトは、ある種の性的な興奮を伝える分泌物やエネルギー(リビドー)と考え、その動きを備給、充満、疎通などの表現を用いて論じた。しかしその実態を掴みあぐねていたことは、「草稿」が未完に終わっていることからもわかる。もしリビドーが脳波計に拾い上げられるようなある種の電気的な信号の伝達であるということを知らされても、フロイトはおそらく異存はなかったであろうと私は想像する。
 もちろん脳機能の可視化は脳疾患の局在化や脳波の検出にとどまらない。現在ではMRICTの画像を心の動きに応じてリアルタイムで追うことすらできるが、その詳細を論述することは本稿の目的ではない。
脳の活動の可視化により臨床がどのように変わったのか? 脳科学の発展は基本的には臨床とは別個のものであるという立場の方もいるかもしれない。しかし私の考えでは、患者の訴えがそれだけ症状として認識される傾向が高まったものと考える。それは裏を返せば、患者の訴えを、偽りや誇張を伴ったものと捉えることへの反省が促されたということでもある。脳科学の所見がそのような流れを促した具体例は数多くあるが、私はその中から次の三つを取り上げて論じたい。
 一つは統合失調症に見られる幻覚の訴えである。私たちはともすると幻覚体験を心が作り出したものと考え、その訴えにあまり信憑性を見出さない傾向にある。しかし幻聴の際、後頭葉の一次聴覚野の脳波の変化が見られ(Sperling, 2004)、血流量が増加していることを示した研究がある(McGuire,1993)。すなわち脳の活動のレベルでは、幻聴体験と実際の聴覚体験には類似性があり、幻聴をリアルに体験すること自体は正常な主観的体験とも言えるのである。幻聴は少なくとも患者が勝手に想像して作り上げた架空の体験ではないのだ。
Lancet. 1993 Sep 18;342(8873):703-6. Increased blood flow in Broca's area during auditory hallucinations in schizophrenia. McGuire PK1, Shah GM, Murray RM.
Sperling W, Martus P, Kober H, Bleich S, Kornhuber J: Spontaneous, slow and fast magnetoencephalographic activity in patients with schizophrenia. Schizophr Res 2002; 58: 189–199. Neuroreport. 2004 Mar 1;15(3):523-6. Cortical activity associated with auditory hallucinations. Ropohl A, Sperling W, Elstner S, Tomandl B, Reulbach U, Kaltenhäuser M, Kornhuber J, Maihöfner C.

二つ目の例は、いわゆるプラセボ(偽薬)効果に関するものである。プラセボを投与することで痛みが軽減されたり除去されたりするという現象が生じた場合、私たちはそれもただの主観的な体験であり、「気のせい」にすぎないと考えるかもしれない。しかしプラセボ効果が生じている際の脳においては、鎮痛薬が生じているのと同様の活動がみられることがわかっている。
fMRIによる研究では、プラセボ使用時には皮質の特定の部位(背外側前頭前野、側坐核)、皮質下のいくつかの部位(扁桃体、脳下垂体、脳幹)、脊髄のレベルなどで変化がみられる。それらの部位の活動はオピオイド拮抗薬のナロキソンで低下するため、プラセボ効果にはオピオイド系の脳内物質が関与していることが示されている。その中でも特に側坐核の活動の亢進と痛みの抑制が関係しているとされる。The Neurobiology of Placebo and Nocebo: How Expectations Influence Treatment Outcomes Donald Eknoyan, M.D.; Robin A. Hurley, M.D.; Katherine H. Taber, Ph.D. The Journal of Neuropsychiatry and Clinical Neurosciences 2013;25:vi-254.

3の例は、解離性同一性障害に関するものである。同障害においてみられる異なる人格部分については、臨床場面でしばしば演技ではないかとの疑いをさしはさまれる。しかし同障害に関する脳波コヒーレンス解析によれば、異なる人格の際の脳波コヒーレンスは低値を示し、役者を用いて異なる人格を演じた場合とは明らかな差がみられたという。(ちなみに脳波コヒーレンスとは、脳の二つの部位の間にどれだけネットワーク関係が成立しているかを知る手掛かりとなる。)
Hopper, A, Ciorciari, J et al. (2002) EEG Coherence and Dissociative Identity Disorder Comparing EEG Coherence in DID Hosts, Alters, Controls and Acted Alters. Journal of Trauma & Dissociation 3:75-88

これらの研究は、「気のせい」とか「~のふりをしている」ということの意味を一から問い直すことにつながるだろう。そしてそれが示唆することはおそらく、私たちはこれまで以上に「患者の主張をそのまま受け止めよ」ということである。もちろんそれは「患者の訴えを鵜呑みにせよ」ということではない。「患者の訴えを額面通りに受け取らずに、背後にある意味を追及せよ」という姿勢が行き過ぎてはならないということを教訓として示しているである。
ところで私には、脳の活動の可視化ということが心の理解に、今述べたこと以上に大きな貢献をしたかはよくわからない。それは脳に心が宿っているという確かな証拠を示してくれたこと、そしてその機能がかなりの程度局在化しているということを教えてくれることは確かであるが、そのことはフロイトの時代にはある程度予測がついていたことであるからだ。患者の訴えに耳を傾けることの重要さの認識には、精神分析全体に流れるある潮流の変化が関係しているという印象を同時に持つのである。そしてそれは近年のトラウマへの関心とともに、その傾向を増しているという印象がある。