2015年1月7日水曜日

7章の追加

離散的、と言ってわかるだろうか?連続的、の逆の意味である。英語で discrete やはり心はトビトビである。 


治療論に向けて

離散的、非力動的な心の在り方を受け入れた場合の私たちの治療はどのように変わるのか。ここでは治療論の詳細を論じる余裕はないため、その概要を示すにとどめたい。
 フロイトの心の理論は力動的であった。つまり意識野における内容と無意識における内容は力動的につながっていると考えられた。私がここで提示しているのは、それとは異なる心の理解である。ここで復習の意味でわかりやすい例を挙げるならば、「パートナーと別れたい」という気持ちと「一緒に居たい」の両方を持つ人の場合、一方は他方の防衛としての意味を考えることである。すなわち「別れたい」という気持ちがあるからこそ「一緒に居たい」という気持ちが湧くという意味だ。それは「別れたい」という気持ちが不安を呼び起こすからかもしれないし、罪悪感を招くからかもしれない。また「一緒に居たい」という気持ちが「別れたい」という気持ちを生むことにある。それは例えば一緒に居たいという願望を最終的に裏切られることへの恐怖に根差しているのかもしれないし、そのような願望を持つ自分を何らかの理由で許せないからかもしれない。 いずれにせよ力動的な考え方は、現在意識化されている願望の裏を同時に理解することでその真の意味を理解することを目指すだろう。
 他方離散的な心のとらえ方は、そのような二つの矛盾する思考や願望の力動的な関係の可能性を否定はしないが、それ以外の関係にも開かれている。人の心には様々な相矛盾する内容が存在し、それが解離されている場合には、そのお互いを認識し合えないことがある。パートナーと普段は「一緒に居たい」と感じていても、何らかの理由で「別れたい」という気持ちが生まれることもある。その理由は不明であることも少なくない。相手に言われた一言、しぐさ、失望、あるいはふと生まれた嫌悪感が関連しているかもしれないし、相手の振る舞いが昔のトラウマを呼び起こしたのかもしれない。その理由づけや解釈は往々にして早計であったり、的外れであったりする。治療者はまずは患者の心に生まれる様々な思考や願望の存在を認め、受け入れ、必要に応じて患者に返していく。その意味で
治療の中核は、患者の中に起きている解離した心的内容どうしの結びつきをより豊かなものにすることに貢献すること、といえるかもしれない。患者の頭の中でAという思考や願望とBというそれは結びついていない可能性がある。治療者は臆断なく、それらの心的内容の結びつきを深めることに貢献する。しかしその作業は力動的な理解に基づく因果論的な関連を強いることにはつながらない。いくつかの矛盾した心を持つ一人の人間としてそのまま受け入れることを意味するのである。
ここで解離している心的内容の間の結びつきを深める、という言い方をしたが、より脳科学的な表現をするならば、それは脳の中のネットワークの結びつきを深めると言い換えてもいい。脳とは巨大なネットワークである、という表現を本章では繰り返した。それらの中で疎遠になっていたり疎通性が悪かったりするネットワーク同士のシナプスを強化すること、それが治療の根底にあるといっていいだろう。またこれは精神分析的な用語でいえば、サリバンの理論に見られるnot-me を心の舞台に取り戻しすことであろう。Not me の部分は、おそらく幼少時に心の主要部分とのつながりを放棄し、あるいは絶たれたいわば迷い子のような部分である。その部分を救い出さなくてはならないのである

同時におそらく私たちがよほど警戒しなくてはならないのは、私たちの持つ理由づけ、「解釈」至上主義の傾向である。もちろん解釈が「AB、すなわちABが関連している」という意味で用いられるのであれば、今述べた根拠から治療的な意味を持つであろう。(もちろんABが治療者の単なる思い付きだったり、患者が拒絶したりするなら、意味はないが。) そうではなくて、解釈が「AB、すなわちABだからだ」、という理由づけの文脈で用いられるとしたら、それは注意すべきであろう。フロイトが考えていた心の在り方は理論的で機械的なところがある。夢の象徴解釈などはそれの典型といえる。従来の精神分析理論はそのようなフロイトの世界観に由来するものだったのである。でも先ほど述べたように、脳の在り方は、離散的、そして非力動的である
 非力動的であることはしかし、私たちが精神分析を行う上で行っている患者との営みを大きく変えることを、事実上は意味はしないと私は信じる。私たちの提供する治療が、連結である限りは、そこにA,B間の因果関係や、さらに背後にあるトラウマとの関連性を探し求める作業を当然含みうる。私たちは力動出来であることを宣告されているようなものだ。特に精神分析という知的作業においてはそれは不可避的と言える。だからこそあえて「非力動的」であることを目指すことは、そのような治療者自身の心の性急さや知性化傾向に対する監視を怠るまいという戒めとなるのである。