2015年1月6日火曜日

気になる解離論者―野間先生

野間俊一先生の書評は、ぜひあらためて紹介したいものである。とある専門誌に発表したものだ (自己引用)
一緒にお仕事をする機会が多いが、ものすごくスケールの大きい先生だ。


    解離する生命    みすず書房 2012年刊
     
「解離する生命」は野間俊一氏の渾身の論文集である。筆者が巻末でこの書を上梓する経緯を語っている通り、本書は首尾一貫したテーマで書き上げられたものではなく、筆者が様々な刊行物に発表した過去数年の論文の集積である。それだけに筆者の幅広い関心を知ることが出来て興味深い。しかしこの論文集は決して離散的なわけではなく、いくつかの中心テーマがその底流として流れている。それが筆者独自の概念である「解離ポジション」であり、ハイマートであり、それらを支える幅広い哲学的な素養であるといえる。
 本章の構成を簡単に紹介する。全体は二部からなり、「第 I 部 解離の諸相」は主として解離に関する論文、「第 II 部 生命の所在」では食行動障害、境界例、その他の考察に関する論文が収められている。
 「第一章 存在の解離」ではさっそく解離ポジションの概念が提示され、それが現代を特徴づける「存在のあり方としての解離」を説明するうえで欠かすことのできない心的機制として説明される。「第二章 瞬間の自己性」では、自己存在を全的に受容するファクターとしてのハイマートの概念が提出される。「第三章 否定の身体」ではメルロ-ポンティの概念から「生きられる意識」と「意味の意識」を抽出し、その両者の乖離として解離現象を説明する。「第四章 飛翔と浮遊のはざまで」ではハイマートの概念をさらに展開し、木村敏のイントラフェストゥムの概念と対置されるべき「コントラフェストゥム」において遠ざかる生命性としてそれを位置付ける。「第五章 流れない時間、触れえない自分」では現代における発達障害の増加をハイマートの喪失という観点から論じる。 
 第六章以降が第二部であるが、この章「交感する身体」では摂食障害を境界例との対比で論じ、摂食障害を主体的自己を身体から切り捨てる試みとする。「第七章 愛のキアスム」では摂食障害を「人格的自己の肥大に対する生命的自己の暴走」と理解する。「第八章 二重の生命」では、摂食障害と境界例との違いについて再び論じ、身体のあり方の比重が「ひとびと性」に置かれるか、「われわれ性」に置かれるかによる違いとする。「第九章 空虚という存在」は解離や境界例にとって普遍的なテーマともいえる自傷行為を解離ポジションやハイマートの観点から論じる。「第十章 置き換えられる身体/置き換えられる生」は、「臓器移植精神医学」という分野に携わった筆者ならではの章であり、この分野が精神病理学的にどのように扱われうるかの好例と言えよう。「第十一章 語りえなさを語るということ」は精神病理学の本分ともいうべき統合失調症のテーマに戻り筆者の立場を示す。「最終章 精神病理学は、絶滅寸前か」は、一般の読者にとってもわかりやすい筆致で、精神病理学という立場について率直に論じた興味深い章である。
 精神病理学は、これほど大胆な切り方を見せるものはない、と私は時々思う。これほど小気味よく世界を分割整理する学問はない。細部を大胆に切り捨て、精神や時代の本質を一直線につかもうというのが精神病理学なのだ。筆者は最近話題になることが多くなった解離や、これも私たちの関心を引いてやまない発達障害の問題をコントラフェストゥムというカテゴリーでくくる。解離ポジションという概念を提出して第4のポジションとして位置づけようとする。最初はそうだろうか、とその大胆さに圧倒されつつも読み進めるうちに、いつの間にか惹きこまれ、納得している。精神病理学という人間の心の細部に分け入るはずの学問が、実は社会の流れを大きくとらえることに寄与する。ちょっと想像が過ぎるかもしれないが、スティーブン・ホーキングによりなしえた量子力学と宇宙論の統合理論を連想した。
 本書を読みながら同時に考えたのは、精神科医として生きるとはどういうことかである。筆者はその幅広い読書を通じて臨床に向かう。そこには精神病理学的な理解をいかに患者のケアに役立てるかについての腐心のあとが感じられる。
 ところでここ二週間ほど、私はかなりの時間を割いてこの「解離する生命」を読んでいるが、おそらく半分以上を理解できないでいることを告白しなくてはならない。しかし本書が難解の部類に属し、ハイレベルの内容であるのも事実であろう。日本が生んだ木村敏という天才の第一の門下生である筆者が属するという研究会「アポリア」の参加者のレベルで初めて十分にその価値を把握できるような内容であろうと思う。私のように精神病理の世界に入ろうとして、門前であきらめた過去を持つ一臨床家に容易にわかるはずがない。というよりわかっては失礼であろう。
 最後に蛇足のようだが、筆者の文章は美しく格調が高い、ということも是非付け加えておきたい。評者は筆者とは解離の会合で一緒になることも多く、しかも私の方がかなり年上な為に、筆者への極端な理想化や畏怖の念を持つ事はあまりないが、木村の後を継ぐ風格をすでに備えていることは、本書を手に取った人ならだれでも感じるのではないだろうか。