2015年1月14日水曜日

ユルイ(4)

実は同じような論法が「新型うつ」にもみられる。新型うつの人は、自分がうつだと「思い込む」けれど、本当のうつではない。そしてうつの診断書を書いたり、薬物を投与することでますますややこしくなるから、医師としては「そっけない態度」を取るのがいいであろう、というわけである。
ただしこのようなことを書くとまた色々議論がややこしくなる。「新型うつとDIDを一緒にするとは何事か!」という人が出てくる。そのような人の話を聞くと、DIDは正真正銘の病気だが、新型うつは偽物だ、という主張をする人と、それと真逆の立場をとる人がいるはずだ。ただし私の眼には似たもののように映る。
しかしもう一つの問題はより本質的と思われる。私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でも把握していない。単に時々記憶がなくなる、一人でいても声が聞こえる、という体験でしかなく、時々異なる話し方や記憶を持つ人としてふるまうということを、他人に指摘されてわかる。そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。どうしてそのような人たちが症状を「アピール」していると言えるのだろうか?解説者の先生の持つDIDはこのように、かなり深刻な誤解や誤謬に満ちている。そして私にはそれが単なる学問上の立場の違いとは思えない。おそらく深い偏見や差別心に根差しているような気がする。これはもう、そのように感じられるものだ。理屈ではないのかもしれない。

人は差別心を多く持つ。私も自分が差別的な傾向を持つことを自覚する。「□□の人たちはちょっと…」の□□の中に該当する人たちが私にもいる。そして解説者もDIDの患者さんたちを□□の彼なりのバージョンに入れてしまっているように感じる。残念なことである。