2014年12月8日月曜日

学生美容室における思いやりの話(なんのこっちゃ) 2 


相手の痛みや優しさがわからない、だから優しくもなれない

 「自分が相手を利用している」という感覚の由来は、相手が痛みを感じているという実感であろう。その実感はおそらく幼少時に対象と同一化をするプロセスに「込み」で体験され、習得されるに違いない。
 他方自分たち自身の痛みについては、人は通常は十二分に体験する事が出来るようである。
自分の痛みはよくわかり、他方で相手の痛みを感じにくいという非対称性が、深刻な対人関係上の問題を生んでいる可能性がある。それは、相互に功利的な関係性の中で「自分だけ不当に利用されている」という感覚を持ち続ける。その結果として「どうして自分を不当に扱うのか」についての訴えが増すことになり、また自分も相手を(さらに)利用しようとする態度を招く。これは周囲に戸惑いを生むだろう。いわば同じルールに従ったカードゲームをしているのに、一方的にルール違反をしたと非難されてしまうという感覚を生むことになるだろう。
さて「自分が相手を利用していることがわからない」ということとほぼ連動して起きることが、「相手の優しさがわからない」ということだ。相手を利用することで相手に生まれるのが苦痛の感覚であるならば、ASDでは相手の心に生まれる陽性の感情がわかる道理もないだろう。すると優しくされることもピンとこない。そこで問題となるのが感謝の心の不足ないし欠如である。
 ちなみに私がここで問題にしようとしているのは、一種のメンタライゼーションの能力と同等と考えていい。人を疑う人たちに対して、私はむしろ同情する思いだ。彼らはまた毎日を寂しい気持ちで過ごしている。人を求めているが不信感を抱く、という非常に矛盾する立場におかれているのである。そしてこのような事態はメンタライゼーションの困難さという問題から生じてくるというのが私の見解である。
ちなみに解離性障害で問題にした図式とちょうど逆である。解離の場合はこうであった。
解離傾向≒相手を思いやる傾向≒相手の気持ちが敏感にわか(りすぎ)る傾向。
それと逆の状況とは、
人に感謝できない人たち≒相手を思いやれない傾向≒相手に対する感謝の希薄さ≒相手を疑い、恨む傾向
すなわちメンタライゼーションの重要な機能は、相手の親切心を読み取ることであり、その部分がないと、相手は自分を利用するだけの存在と見なされてしまうのである。そしてメンタライゼーションの機能が結果として引き起こすことは、感謝や思いやりの感情の希薄さではないかと思うようになった。

逆転移の問題
さて「思いやり」の問題に戻ってきた。私たちが思いやりを示してくれない相手に、サービス業などで出会ったらどうするか。
 一つ事実としてあることは、私たちが実際に客としてサービスを受けるとき、私たちは相手に結構気を使っているものなのである。サービスを受ける側としても、それを気持ちよく受けたい。それに相手の機嫌を損ねることでより良いサービスを得られなくなってしまうという危険性もある。タクシーの運転手さんにだって気を使っておかしくない。乱暴な運転をされて事故にあわされては困るからだ。相手が医者となるともっとそれは言えるかもしれない。ある意味では向こうはこちらの生殺与奪の件を握っているのだ。医者を怒らせることで診断が変わったり、治療の手を抜かれるということはないだろうが、それにしても喧嘩をしていい相手ではない。というより医者の場合は最初から威張っていて、患者が気を使わないと怒られるということもあるだろう。おかしな話だが。
結局サービスを提供する側も、この顧客、カスタマーからの気遣いを「込み」で仕事が出来ているということは少なからずあるということを言いたいのだ。サービス業とはある意味で過酷なものである。一日中頭を下げ続けるのがその仕事だからだ。その中で時々相手からの気遣いを受けるとこちらの緊張も緩み、よりよいサービスを提供しようという動機づけも生まれる。カスタマーから、受けたサービスへの感謝を告げられると、その喜びはピークに達したりする。外科の先生などは公言したりする。「患者さんからの『ありがとう』を支えにして毎日の激務に耐えています。」精神科医などにはあまり言えない素直な言葉だ。
 さてそこにこちらの気持ちをあまり汲んでくれないお客様が表れる。むしろ「どうしてもっとしっかり切ってくれないのか!」というお叱りを受ける。他のお客様だと「共同作業」というニュアンスで行っているものが、突然法廷で争っている敵同士の関係に思えたりする。これはつらく厳しい作業となる。そのようなカスタマーとの関係を維持するためのいくつかのポイントを考えてみよう。
一つには、決して一人での戦いを続けないことであろう。職場の同僚と必要に応じて意見を交わしあうこと。そして日常生活に潤いや癒しを持つことであろう。
 二つ目はサービス提供者として無理をしないことであろう。通常はワンカットだけでも非常に精神的な消耗を感じる場合が多いため、そのお客さんのカットを週に頻回にもつこと、ないし一日に同様のカスタマーの髪を何度も切らないことだろう。(いったいナンの話だ?そんなことをしたら坊主頭になってしまう。
)
三つ目には適正なチャージを行うことである。「仕事と割り切る」ことが非常に重要となるが、そのためには正当な報酬が伴わないと、それが出来ない。
 ただしこの三つ目に関しては、例えば学生美容室などは問題を生むことになる。通常は料金がかからないからこそ、そしてそれどころか「自分は在学している限りは髪をカットしてもらう権利を持っている」と思っているからこそ難しいのだ。そのような状況で美容師が被虐的に難しい美容関係(!)に耐え続けるという事態も生じてくるのではないだろうか。そうなると四つ目も可能性として必要となる。それは美容構造を決めて、つまりこちらが「仕事と割り切る」事が出来るような時間や頻度や料金を設定し、それに見合わないカスタマーにはご遠慮いただくというわけである。この4番目は、実は学生理髪師がバーンアウトをしないためにも必要なことかもしれない。(結局最後まで、なんのこっちゃ)