2014年12月7日日曜日

学生美容室における思いやりの話(なんのこっちゃ) 1

 
美容師として働いていると、私たちは時々奇妙な疑問を抱くことがある。「お客さんたちは私に思いやりを持ってくれているのだろうか?」という考えだ。
 これはとんでもない発想かもしれない。どうして美容師の側がお客さんに思いやってもらわなくてはならないのか。しか私たちがお客さんたちと良好な関係を持つうえで、いかに彼らから協力してもらっているかということを知らされることが多い。このことは学生による美容師の仕事に携わってきたこととも関係している。
(中略)
 ここで一言述べておかなくてはならないのは、確かに学生美容師によるヘアカットの機会というのは、非常に微妙な意味合いを持つということだ。学生美容師は、特に初めてのケースを持つ際には、おおむね経験不足であり、戸惑いや自信のなさを患者の前でも醸す傾向にある。ヘアカットを受ける側にも「この人は大丈夫か?」という心もとなさを抱かせるだろう。それもあり、学生相談室のシステムには、「あまりハイレベルのサービスは提供できません。美容師の卵たちのトレーニングの機会でもあります。だから低料金で行います。」という暗黙の前提がある。しかし学生美容師の側には非常に有能で、また多くの情熱を注ぐことでかなりの成果を上げる人たちも多い。だから一方的に患者を利用するという感覚からは程遠いということを言っておきたい。
 またこの種のトレーニング期間は、実は社会が機能するために不可欠であることも確かである。いわゆる OJTon-the-job training 実地訓練)は、サービスが携わる人間にとって不可欠である。どんな達人にも新人時代があり、そこでの失敗を含む多彩な経験が、その人を作り上げていく。考えてみればおよそすべての業務に携わる人間が一生OJTを行っており、カスタマーは実験台というところがある。その意味では一部の人たちが持つ「利用されている感覚」はある意味ではもっともなことなのである。これはサービス業を利用する私たちが実際は頻繁に感じ取り、体験することでもある。「大学病院では多くの研修医にジロジロ見られるからいやだ」という声なども頻繁に聞く。
 しかし私たちの大部分はその「利用されている感覚」と折り合いをつけているものだ。それは向こうがカスタマーを通して体験から学ぼうとしているように、こちらもなるべく低料金でいいサービスを受ける可能性があるというメリットがあるからだ。あるいは大学病院であれば、そこでは高度な医療を提供する設備が整っているというメリットがある。その意味でトレーニング的な機会を提供する側も、利用する側も、功利主義的な関係性の中にあり、市場原理が成り立ち、結局は「お互い様」なのである。
 そのような功利的でシビアな関係性の一方で、私たちが曲がりなりにも社会生活を表面上は和気藹々と営めるのはなぜだろうか。それはお互いに相手の為を思い、自分を犠牲にしているというファンタジーを醸成し合っているからである。それをここでは「社交性の被膜」と呼んでおこう。熾烈な競合関係にある大国同士も、首脳が会えばにっこり微笑んで握手をするのは、この被膜の表れだ。この被膜が、その下にある功利的な弱肉強食の関係性の醜さや恐ろしさを覆い隠しているとも言えよう。
そこで問うてみよう。もしこのファンタジーによる「社交性の被膜」を形成する能力が不足しているとどうなるのだろうか?そうであるならば、彼らはこの被膜の下の、お互いに相手を利用するという側面を直接に感じ取るような関係を常に体験していることになる。しかしそれはそれでいいではないか。そのレベルでは互いを利用しあう関係が成立しているわけであるし、彼だけが一方的に利用されているわけではないはずだ。しかし彼らはどうして一方的に利用される関係のみを体験するのか? 
 理屈からいうとこうだ。お互いに利用し、利用される功利的な関係性においては、自分が相手を利用しているという感覚と、自分が相手に利用されているという感覚の両方が存在し、バランスを取り合っていることになる。そのうちどちらが極端に勝っても、一方的に利用されることによる被害感や、逆に一方的に利用していることへの後ろめたさが生じるであろう。そこでこちらの要求水準を上げたり、そのような関係から撤退することで、自分の立ち位置を調整することになる。一般的な意味で社会性を備えた人は、この「社交性の被膜」を維持するのと同時にこの種の立ち位置を相手に合わせて調整することが出来る人である。
 人が社会の中で生きている以上、たとえ自分が立ち位置を変えなくても、他者の方でそのスタンスを調整してくるのが普通だろう。それは他者は一般的に通常の社会性を備えているからだ。時には搾取的な人に出会うかもしれないが、たいていの相手は「お互い様」の位置に動くことで調整してくる。するともし一部の人たちが、他者から利用されるという感覚しか味わわないという問題があるとしたら、それは「自分「相手を利用している」という感覚の方のみが不足していることになる。それはどこから来るのだろうか?それは(自分によって)利用されている相手の痛みが分かりにくいからだ、というのが私の仮説だ。