A2の治療的、非治療的な要素
A2の治療的要素としては、A1のそれと同様と考えられる。ただし治療者が患者から問われるわけでもなく自分の情報を提供することで、ギフトとしてのニュアンスはいっそう大きくなるであろう。またそれは治療者のアクティビティを示すものというニュアンスがいっそう増すことになる。自己開示の積極的な意義を治療者自身が考えた上での介入としての意味が大きくなるのである。
A2の非治療的要素は以下のとおりである。
1.治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。
1.治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。
これは自明のことであろう。A1のように患者側から問われたことは、その情報を少なくとも患者自身が欲していたことが明らかであるが、A2の場合は、それを患者が必要としていないというリスクは高まる。場合によってはまったく無用かもしれない。その点を勘案しない場合の自己開示は、単なる自己愛的な自己表現となりかねないであろう。
2.患者の自己表現の機会がそれだけ奪われること。
2.患者の自己表現の機会がそれだけ奪われること。
これは1と連動することになる。治療者の自己開示が結果的に、ないしは事実上彼の単なる自己愛の発露であるならば、その時間は決して患者のために使われたことにはならないであろう。
3.治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。
4.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねないこと。A2はA1と異なり自発的な自己開示であるために、A1の非治療的な要素よりも深刻となる。
A2の例
3.治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。
4.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねないこと。A2はA1と異なり自発的な自己開示であるために、A1の非治療的な要素よりも深刻となる。
A2の例
治療者:(特に患者から質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析セッションには決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。
この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことで、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする可能性がある。こうなるとこのような治療者の発言も意図は不明確で、それ相当の事情や状況が関係していない限りはあまり治療的な発言とはいえないであろう。ここでA1との違いは明白となる。
Bの治療的、非治療的な要素
少し復習しておこう。B 不可避的に生じる自己開示については、B1 治療者に意識化された自己開示、B 2
意識化されない自己開示、に分けた。
B1の治療的要素としては、治療者が防衛的にならずに、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度ではないことが、患者に安心感を与える。
B1の非治療的要素としては治療者のことを知りたくないという患者の願望を満たせない可能性がある。
B1とはたとえば治療者がオフィスに無造作に置いてあったり、患者が読んだり購入したり出来る形で出版物を発表したりするような場合である。また最近ではインターネットを通じた自己表現、たとえばホームページやブログ、ないしはツイッターも含まれるであろう。このうちそれが患者の目に触れることを十分に意識しているものの多くはB1に含まれることになる。それが治療的な意味を持つこともあるだろう。
オフィス、待合室などの治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。そこで患者の目に触れる可能性のあるものについて、治療者は節度を持ち、かつ柔軟性を維持することが大切であろう。たとえば治療者がオフィスに家族の写真をおいてある場合、それが大きく目立つような形でデスクの上に飾られているか、小さなフレームで本棚の上に目立たずにおかれているかで、かなり意味合いが異なる。もし治療者がことさらにオフィスに物を置かず、貸しオフィスのように生活感が感じられないものを用意しているとしたら、それは治療者の「私の個人的なことは一切知られたくない」という意図を患者に感じさせてしまうかもしれない。しかしそうでないとしたら、「私は特に個人的なことを無理して隠そうとはしていません」というメッセージを発していることになり、治療者が防衛的でなく、患者をある程度は信頼して気を許しているという雰囲気を伝えるかもしれない。それは治療的といえよう。
ただしこれには限度があり、治療者が患者に個人的な情報が伝わることを了解しつつ隠さないことで患者が不快に感じることもありうるだろう。家族の写真、あるいは個人的な趣味や思い入れが露骨に伝わるような絵画や写真、フィギュア、雑誌などは、治療者の個人的なことは知りたくないという患者の願望を裏切ることになる。それは治療者の無神経さや配慮のなさの表れにもなるのである。
オフィス、待合室などの治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。そこで患者の目に触れる可能性のあるものについて、治療者は節度を持ち、かつ柔軟性を維持することが大切であろう。たとえば治療者がオフィスに家族の写真をおいてある場合、それが大きく目立つような形でデスクの上に飾られているか、小さなフレームで本棚の上に目立たずにおかれているかで、かなり意味合いが異なる。もし治療者がことさらにオフィスに物を置かず、貸しオフィスのように生活感が感じられないものを用意しているとしたら、それは治療者の「私の個人的なことは一切知られたくない」という意図を患者に感じさせてしまうかもしれない。しかしそうでないとしたら、「私は特に個人的なことを無理して隠そうとはしていません」というメッセージを発していることになり、治療者が防衛的でなく、患者をある程度は信頼して気を許しているという雰囲気を伝えるかもしれない。それは治療的といえよう。
ただしこれには限度があり、治療者が患者に個人的な情報が伝わることを了解しつつ隠さないことで患者が不快に感じることもありうるだろう。家族の写真、あるいは個人的な趣味や思い入れが露骨に伝わるような絵画や写真、フィギュア、雑誌などは、治療者の個人的なことは知りたくないという患者の願望を裏切ることになる。それは治療者の無神経さや配慮のなさの表れにもなるのである。
B2についても、その治療的、非治療的な点については、上述のB1に関する議論と類似したものを考えることが出来る。実はB1とB2は明確に区別できないものがたくさんあり、一種のスペクトラムや連続体が成立していると考えざるを得ない。たとえば治療者がある症例を学会誌に発表したとしよう。かなり一般化された形での、短い症例の説明であり、充分に扮装を施したものであり、患者本人の許可を得たわけではない。また発表された専門誌は大学の紀要のような一般に市販されてはいないものであるとしよう。多くの場合治療者が患者が読むとは想定してはいないだろう。しかし患者が何らかの形でそれを目にした際に、それはB2として成立することになるだろう。そしてそのことを治療者が知った時点でB1に移行するということになる。
おそらく治療者が職業的に、ないしは個人的にかかわりを持つ様々なものがこのB1,B2ないしはどちらにも峻別できないようなものとしての性質を有する。そしてそれに対して一つ一つ治療的、非治療的ということを考えることは本来適当でない。Bは結局は自然に起きてしまう、不可抗力的なものだからだ。
結局治療者はBが患者に与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。そしてそれ以前に身の回りをきちんとし、節度を守った生活を送る、ということが大事になってくる。そのうえで患者が知ることになった個人的な情報について率直にその治療的な影響を考え、必要に応じて治療的に取り扱っていくということになるだろう。
しかしこのように考えることは、ある一つの重要な疑問を抱かせる。治療者は決して私生活においても気を抜いてはならないのか?誤って患者の目に触れたとしても恥ずかしくないような生活態度を常日頃から心がけ、品行方正を旨とすべきなのだろうか?この点に関して私は答えを持たないし、持つ立場でもない気がする。しかしひとつ言えるのは、患者が治療室で想像するであろう治療者像から、実像があまりにかけ離れている場合、それはいずれは直接、間接に知るところとなるであろうということだ。
ところで私は日ごろからバイジーさんに次のようなことを言っている。「自分のことを話すことが本当の意味であなた(患者さん)のためになるのであれば、いくらでも話しますよ」というスタンスを持ちつつ、最小限のことしか話さないという態度が理想であろうと。これはある種の「非防衛性non-defensiveness」の勧めと言える。
しかしこれはもちろん「治療者個人にとってトラウマを呼び起こしたり、深刻なコンプレックスに触れるような内容についてまで患者に話す用意を持つべし」、ということではない。「いくらでも話す用意がある」といっても無制限ではないのだ。ただし治療者が個人としてあまりに触れてほしくないことが多いような生活を送っているとしたら、治療者の自由度はかなり制限されることになる。
考えてもみよう。ある治療者がトラウマを抱えていたとする。たとえばかつて人に深刻な裏切り行為をされたとしよう。そのことが「必要とあらば話せる」治療者であれば、彼はそれを克服して、自分のため、他者(患者を含む)のために利用できる程度に処理をしているということを意味する。それに比べて、そのトラウマについては決して他人に触れさせないという防衛的な立場にある場合は、はるかに治療者としての自由度が小さいと言わざるを得ない。
結局治療者はBが患者に与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。そしてそれ以前に身の回りをきちんとし、節度を守った生活を送る、ということが大事になってくる。そのうえで患者が知ることになった個人的な情報について率直にその治療的な影響を考え、必要に応じて治療的に取り扱っていくということになるだろう。
しかしこのように考えることは、ある一つの重要な疑問を抱かせる。治療者は決して私生活においても気を抜いてはならないのか?誤って患者の目に触れたとしても恥ずかしくないような生活態度を常日頃から心がけ、品行方正を旨とすべきなのだろうか?この点に関して私は答えを持たないし、持つ立場でもない気がする。しかしひとつ言えるのは、患者が治療室で想像するであろう治療者像から、実像があまりにかけ離れている場合、それはいずれは直接、間接に知るところとなるであろうということだ。
ところで私は日ごろからバイジーさんに次のようなことを言っている。「自分のことを話すことが本当の意味であなた(患者さん)のためになるのであれば、いくらでも話しますよ」というスタンスを持ちつつ、最小限のことしか話さないという態度が理想であろうと。これはある種の「非防衛性non-defensiveness」の勧めと言える。
しかしこれはもちろん「治療者個人にとってトラウマを呼び起こしたり、深刻なコンプレックスに触れるような内容についてまで患者に話す用意を持つべし」、ということではない。「いくらでも話す用意がある」といっても無制限ではないのだ。ただし治療者が個人としてあまりに触れてほしくないことが多いような生活を送っているとしたら、治療者の自由度はかなり制限されることになる。
考えてもみよう。ある治療者がトラウマを抱えていたとする。たとえばかつて人に深刻な裏切り行為をされたとしよう。そのことが「必要とあらば話せる」治療者であれば、彼はそれを克服して、自分のため、他者(患者を含む)のために利用できる程度に処理をしているということを意味する。それに比べて、そのトラウマについては決して他人に触れさせないという防衛的な立場にある場合は、はるかに治療者としての自由度が小さいと言わざるを得ない。
まとめ
治療者の自己開示というテーマで論述した。その趣旨はすでに文中で述べたとおりである。すなわち自己開示は、その是非を全体として問うべきものではなく、治療者が個別的な治療状況でそれを行うか否かの判断を下すべきことである。そしてそのためには自己開示としてどのようなものがあり、それぞれにどのような利点と問題点があるかをよく知っておくことが重要なのだ。さらにこの論文では、この自己開示の問題の背景に治療者の自己愛があるという私の発想を強調した。治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。