2014年12月13日土曜日

「心理療法における発達障害」にむけて


心理療法場面で発達障害に出会うことがますます多くなっているという印象を受ける。ここ十年ほどのことだ。ケースの語る言葉、日常生活の報告の中に、ある種のちぐはぐさやズレを感じ、その心の在り方を把握しあぐねることがある。その時ふと発達障害の可能性を思い浮かべた場合に、途端に全体像が見えやすくなったりするという体験が多い。こうして従来はあまり念頭に置かれることがなかった発達障害の問題が、しばしば論じられるようになってきているのだ。
  これにはいくつかの可能性が考えられる。ひとつは発達障害を持つ人が増加している可能性。これは日本に先だって特に北米圏で指摘されていることである。二つ目にはこれまで認知されていなかった発達障害を有する人々が、その認知度の上昇とともに、それと同定されるようになった可能性がある。
発達障害を持つクライエントは、もちろんそれのみでやってくるとは限らない。むしろ不安や抑うつ、職場での不適応などの具体的な問題を抱えて私たちのもとをおとおずれることが多い。しかしそれらの問題と並行して、あるいはその背後に発達障害的な問題がみられる場合がかなり多い。場合によっては発達障害の問題がクライエントに慢性的なストレスを与え、それが抑うつや不安や不適応を悪化させている可能性がある。
 このような話をすると、駆け出しのカウンセラーやカウンセリングを学ぶ院生は多少なりとも混乱した様子を見せることが多い。ただでさえ複雑な臨床素材がよけいに複雑に見えるかもしれない。しかし昨今の発達障害の議論の高まりを一つのチャンスと思い、人間には必ず発達障害の次元があるという見方をする習慣をつけてほしい。すると人を見る目が人一倍肥えるはずである。
 衣笠隆幸先生の概念である「重ね着症候群」という概念がある。さまざまな症状の背後に発達障害を想定する考え方だ。残念ながらDSM-5からは「多軸診断」が消えたが、「重ね着」はこの多軸と同様の考え方と考えてもいい。クライエントは発達障害的な問題と、パーソナリティ傾向ないしパーソナリティ障害的な問題と、症状を伴う精神科的な問題という三つの軸をそれぞれ持っていると考える。それぞれがお互いに影響を与え合う。(その上に愛着の問題、トラウマの問題、現在のストレスの問題、身体的な障害の問題、知的能力の問題を加えて全部で8軸と言いたいところだが、混乱するのでやめよう。)
発達障害は一種の診断でありラべリングである。そして療法家はバイアスからできるだけ自由にならなくてはならない。クライエントに発達障害の可能性を考えることは、ある意味ではクライエントを色眼鏡で見ることにつながる。しかしらべリングは「剥がすため」にあると割り切り、少なくとも臨床家の一時期は、クライエントの一人一人に発達障害の可能性を考えることを私は勧めたい。発達障害を正しく理解することで、今度は発達障害から自由なクライエントの姿もまた見えてくると思う。私が別稿で論じている通り、発達障害のクライエントは治療者との関係で独特の雰囲気を伝えてくる。そのことを理解することは、自分の治療程度や転移、逆転移を考えるうえでも非常に有用であると考える。
発達障害について関心を持つもう一つのメリットがある。それは発達障害的な要素は実はすべての人が多かれ少なかれ備えているのであり、自分の中の発達障害を認めることで、私たちが治療者としての在り方を知ることにもつながるのだ。発達障害は別稿で述べるように、人の気持ちをモニターする能力の問題である。もちろん診断基準には本人の関心の偏り、情動的な行為と言ったもう一つの問題が掲げられているが、とりあえず対人関係上の問題に関連しているのは、こちらの方、いわゆるメンタライゼーションの能力の問題である。しかし私たちはこれをふとしたことから、発揮する能力を低下させてしまうことがある。男子諸君は残念ながら発達障害指数は高いことが多いが(自分の薬指の長さは少しは参考になるかもしれない)、人は一時的にこれを失い、人に共感できなくなってしまう。これは治療状況でも起きているかもしれない。そのことに注意深くなることは決して無駄にはならないであろう。
最後に発達障害という言葉そのものにアレルギーを持つセラピストに。発達の凸凹(杉山登志郎)という表現は言い得て妙である。これだったらすべての人が皆持っている。自分の発達の凸凹を知ること。これはほとんど自分自身を知ることと言っていいだろう。これは精神分析にとっても認知療法にとっても重要な治療目標となりうるのである。